前回、紹介した、「運命と自由意志が同一のものである」 というナラヤン師の言葉はどういう意味なのでしょう・・・

言葉上は矛盾してますね^^;

 

私は以下のように思っています。

 

私は、以前、漫画家を目指したことがあります。

漫画を描いていたときに少し思ったのですが・・・

漫画(または小説や劇)の中の世界にとって、私(作者)は 『神』 なんだな、と感じました。

 

作者はすべての世界を作り出します。

まさに全知全能の存在ですが、あまりに世界観に逸脱し、好き勝手やると、作品がおかしくなり台無しになるので、なんでもかんでもできるわけではないです。

全能ですが、そういう意味では、ある種の制約はあります。

 

そして、作品の中の人物は『私(作者)』の存在に気付かない。

自分たちが神(作者)から生まれたという事を知らない。

 

悪人も善人も、私(作者)から生まれた者であり、私(作者)の一部です。

何をし、何を考えているか、私・作者にはお見通し・・・

なぜなら彼らは私だから。

 

作品の中では、悪にも善にも、すべての存在に意味があり、果たすべき目的があり、作者の意志に沿って、各キャラクターは動く。

そして、その作品の中のキャラたちは、自分たちがその世界で本当に存在していると思っている。

彼らは自分には意志があり、自由な存在と思っている。

実際は、全ては『神(作者)』から生まれた幻想(マーヤー)であり、裏の本当の世界があるということを知らない。

 

これが、漫画や小説、劇の中の世界です。

 

もし、この漫画の世界の登場人物と作者の関係を表現しようとすると、どうなるのか・・・

運命のみが存在するというのも正しいでしょう・・・・

彼ら(←登場人物)は、自分たちは完全に自由で、運命などある訳が無いと思っていますが、作者がそのキャラを生み出した時から、運命は決まっており、すべては作者(神)の意図であり、真に自由な意思など存在しないのですから。

しかし、見方を変えれば、作品中のキャラたちは作者(神)の一部であり、その意思に沿って動く・・・

その意味では、作者(神)の意志はキャラの意志と同一であり、その視点から見れば完全に自由である。

 

これが、「運命と自由意志が同一のものである」という意味ではないでしょううか・・・

 

また、漫画を描いているうちに、キャラが勝手に動き出す時がある。そういう意味では、彼ら視点からも真の自由がある。

(逆に、漫画では、キャラが勝手に動かないと駄目、とよく言われます)

こうなってくると、作者の意思なのか、キャラの意思なのか分かりません・・・不可分になります。

 

この世界も同様に、神が創った漫画や小説、劇のような物ではないでしょうか・・・

みんな神の存在を知らず、自由があると思っており、運命や大きな意思があることに気がつかない・・・

 

般若心経では、この世は空で、実体がないと説きます・・・

インド思想では、この世は神のリーラ(遊戯・劇・幻)であると説きます・・・

 

その劇が終了し、皆、役が終われば、作者・神に還ってゆく・・・

傷つけあったものも、憎しみ合ったものも、それも一つの劇の中のこと・・・

すべてには理由があったし、終わればみんな手を取り、祝福しあう・・・

 

私たちも、リーラという壮大な劇が終わり、いつかすべてを思い出す時が来るのかもしれません。

 

 

一休の俳句を三句・・・

 

 『 雨あられ 雪や氷とへだつれど

   おつればおなじ 谷川の水 』

 

 

 『 はじめなく をわりもなきに わがこころ

   うまれ死するも 空の空なり 』

 

 

 『 三とせまで つくりしつみも もろともに

   ついにはわれも きえはてにけり 』

 

                    一休

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