【運命と自由意志⑦】:劇の中の世界
前回、紹介した、「運命と自由意志が同一のものである」 というナラヤン師の言葉はどういう意味なのでしょう・・・
言葉上は矛盾してますね^^;
私は以下のように思っています。
私は、以前、漫画家を目指したことがあります。
漫画を描いていたときに少し思ったのですが・・・
漫画(または小説や劇)の中の世界にとって、私(作者)は 『神』 なんだな、と感じました。
作者はすべての世界を作り出します。
まさに全知全能の存在ですが、あまりに世界観に逸脱し、好き勝手やると、作品がおかしくなり台無しになるので、なんでもかんでもできるわけではないです。
全能ですが、そういう意味では、ある種の制約はあります。
そして、作品の中の人物は『私(作者)』の存在に気付かない。
自分たちが神(作者)から生まれたという事を知らない。
悪人も善人も、私(作者)から生まれた者であり、私(作者)の一部です。
何をし、何を考えているか、私・作者にはお見通し・・・
なぜなら彼らは私だから。
作品の中では、悪にも善にも、すべての存在に意味があり、果たすべき目的があり、作者の意志に沿って、各キャラクターは動く。
そして、その作品の中のキャラたちは、自分たちがその世界で本当に存在していると思っている。
彼らは自分には意志があり、自由な存在と思っている。
実際は、全ては『神(作者)』から生まれた幻想(マーヤー)であり、裏の本当の世界があるということを知らない。
これが、漫画や小説、劇の中の世界です。
もし、この漫画の世界の登場人物と作者の関係を表現しようとすると、どうなるのか・・・
運命のみが存在するというのも正しいでしょう・・・・
彼ら(←登場人物)は、自分たちは完全に自由で、運命などある訳が無いと思っていますが、作者がそのキャラを生み出した時から、運命は決まっており、すべては作者(神)の意図であり、真に自由な意思など存在しないのですから。
しかし、見方を変えれば、作品中のキャラたちは作者(神)の一部であり、その意思に沿って動く・・・
その意味では、作者(神)の意志はキャラの意志と同一であり、その視点から見れば完全に自由である。
これが、「運命と自由意志が同一のものである」という意味ではないでしょううか・・・
また、漫画を描いているうちに、キャラが勝手に動き出す時がある。そういう意味では、彼ら視点からも真の自由がある。
(逆に、漫画では、キャラが勝手に動かないと駄目、とよく言われます)
こうなってくると、作者の意思なのか、キャラの意思なのか分かりません・・・不可分になります。
この世界も同様に、神が創った漫画や小説、劇のような物ではないでしょうか・・・
みんな神の存在を知らず、自由があると思っており、運命や大きな意思があることに気がつかない・・・
般若心経では、この世は空で、実体がないと説きます・・・
インド思想では、この世は神のリーラ(遊戯・劇・幻)であると説きます・・・
その劇が終了し、皆、役が終われば、作者・神に還ってゆく・・・
傷つけあったものも、憎しみ合ったものも、それも一つの劇の中のこと・・・
すべてには理由があったし、終わればみんな手を取り、祝福しあう・・・
私たちも、リーラという壮大な劇が終わり、いつかすべてを思い出す時が来るのかもしれません。
一休の俳句を三句・・・
『 雨あられ 雪や氷とへだつれど
おつればおなじ 谷川の水 』
『 はじめなく をわりもなきに わがこころ
うまれ死するも 空の空なり 』
『 三とせまで つくりしつみも もろともに
ついにはわれも きえはてにけり 』
一休
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