仮に、この世が 神のリーラ(劇・遊戯・幻)だとして、私たちがこの世(リーラ、またはマーヤー)の中にいる理由はなんでしょう?

なぜ苦しみに満ちたこの世にいるのでしょう?

この世が存在する理由はなんでしょう?

 

本当かどうかは確かめようがないですが、『神との対話』という私の好きな本に創造の始まりについての記述があります。

これはインド思想・神話とかなり似てますが、分かりやすいので、こちらから要約して抜粋してみます。

 

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まず「はじめ」にあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。

ほかには何もなかった。

 

あるのはそれだけで、ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。

「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。

「存在のすべて」が知っているのは、「他には何もない」ということだけだった。

 

比較対照するものがなければ、いつまでも自らを知ることはできない。

「存在のすべて」には、そんな比較対照の基準がなかった。

比較対照の基準が何かあるとすれば、それは内部にしかない。

これが「すべてであって/無」ということ、「わたしであり/わたしでない」ということだ。

 

「存在のすべて」は、自らを体験的に知ろうとした。

自分が何者か知るためには、自分ではないものが必要だった。

 

しかし、私たちは、自分でなくなることはできなかった。

私たちは、どんなに努力しても『神』の子供でなくなることはできない。

そこで、私たちは『忘れる』という次善の方法を取った。

 

そうして、属性のない「神」が、自分を忘れ、「多」という、あらゆる相対的な形をとった。

 

この内側からの爆発が起こったとき、神は相対性という自分への最も偉大な贈り物を創造した。

 

そうして、全ての悲哀、善と悪、苦と楽、喜劇と悲劇、あらゆる二元性が生まれた。

 

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私たちは、その 『忘れた』 ことを思い出す旅に出ている・・・

 

ちなみに、この忘却のことをインドでは 『プラッギャハラ』 と言うらしいです。

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