もう、年の瀬ですね・・・

大晦日ということで、べートーヴェン・第九版の般若心経を貼っておきます。

 

私が読んで、震えが来た仏教経典が4つあります。

一つは、信心銘、もう一つはダンマパダ、もう一つがスッタニパータ、そしてもう一つが般若心経です。

般若心経は、大学生の時に、本屋で訳本を見つけ、その内容の凄さに何度も読み返し、本屋から出たあとも気になって本屋にまた戻って、もう一回読んだ覚えがあります。

このお経では、私というもの、またこの世は 「空」 であると言っています。
この「空」と言うものはいろんな解釈があるのですが、単純に「幻」、「実態のない物」という解釈が好きです。(物によっては、「無常なもの」、「移り行くもの」、と言う解釈もあります。意味は似てますが、当回しのような感じがします。意訳して「こだわるな」と訳した物ありますが、これはもっと微妙。)

ヴェーダーにも、この世は神のリーラ(劇・夢・遊戯)やマーヤー(幻・無明)であるとされますが、それと似た教えであると思います。

 

以下に、原文と訳を載せて起きます。

 


 〔原文〕

 

 仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 

菩提薩婆訶 般若心経 

 

〔日本語訳〕 (玄奘訳・般若心経+サンスクリット原典からの補完版です)

私はこのように聞いています。

お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、

お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。

その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成”の修行をされて次のように見極められました。

人は、「私」というものが存在すると思っているけれど、

実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という

一連の知覚・反応を構成する5つの構成要素であり、

そのどれもが「私」ではないし、「私に属するもの」でもないし、

またそれらの他に私があるわけでもないのだから、

結局どこにも「私」などというものは存在しないのだ。

しかもそれら5つの構成要素も幻のように実体がないのだと。

そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。

 

お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。

「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」

それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

「シャーリプトラよ、物質的現象は幻のように実体のないものであり、

実体がないものが物質的現象としてあるように見えているのです。

物質的現象は幻のように実体のないものに他ならないのですが、

かといって真実の姿は我々が見ている物質的現象を離れて存在するわけではありません。

物質的現象は 実体がないというあり方で存在しているのであり、

真実なるものが 幻のような物質的現象として存在しているのです。

これは物質的現象だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです。

 

シャーリプトラよ、このようにすべては実体はなく、生まれることも、なくなることもありません。

汚れているとか、清らかであるということもありません。

迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。

このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、

物質的現象も感覚もイメージも意思も思考もありません。

目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、

色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。

目に映る世界から、心の世界まですべてありません。

悟りも無ければ、迷いもなく、

悟りがなくなるということもなく、迷いが無くなるということもない。

同様に老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。

知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。

このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。

心に妨げがないので恐れもありません。

誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。

過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。

 

ですから、知らないといけません。

“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、

すべての苦しみを取り除き、偽りがなく真実のものであります。

さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ。)

シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」

 

この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。

そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。

以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。

 

参考元:http://www.e-sogi.com/arekore/kyo1.html

 

 


 

一般に、私たちは夢の中で、自分が夢を見ているとは気づきません。現実の世界だと思い疑いもしません。

朝、目が覚めて、ようやく夢であったことに気づきます。

このお経が言うように、この世界も、もしかしたら夢であるのかもしれません・・・

そして、このいわゆる「私」というものは、この世という夢の中でしか存在しない架空の存在なのかもしれません。

この世が夢であることを悟り、目覚めた人をブッダ(覚者)というのでしょう。

 

以下に、この世が幻をいうこと述べている聖者の言葉を集めてみました。

 


 

この世界は、すべて神の心が投影している映画です。

死は、あなたに、この恐ろしい生と死の宇宙映画が神ご自身の光によって映し出されていることをお示しなり、

そのあと、神の光だけを残してすべての映像を消してしまわれるでしょう。

そのときあなたは、万物が神の光と影とによって映し出された

実体のない幻影であったことを知って笑い出すでしょう。

そして、神の光だけが実在することを知ります。

あなたは自分自身をこの迷夢からたたき起こして、

自分が神の不滅の光の中の一部の光線であることを悟らなければなりません。

この悟りは、最高のヨガの瞑想を行ずることによって得られます。

それは、講義では伝えることのできない経験です。

 

-人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集

人生の体験をあまりに真剣に受けとってはいけません。 とくに、その体験のために苦しんではなりません。 なぜなら、本当は、すべてはほんの夢にすぎないのですから・・・ もし状況が悪くて、耐え忍ばなければならないとしたら、 その状況をあなたの一部としないことです。 人生のあなたの役を演じなさい。 そして、 それが単なる役にすぎないということを忘れないでください。 パラマハンサ・ヨガナンダ


 

 

人生の体験をあまりに真剣に受けとってはいけません。

とくに、その体験のために苦しんではなりません。

なぜなら、本当は、すべてはほんの夢にすぎないのですから・・・

もし状況が悪くて、耐え忍ばなければならないとしたら、 その状況をあなたの一部としないことです。

人生のあなたの役を演じなさい。

そして、 それが単なる役にすぎないということを忘れないでください。

 

  -パラマハンサ・ヨガナンダ

 


すべての時間を消え去りゆくもののために費やして、何の役に立つのでしょう?

人生とはまさにドラマであり、幻影に過ぎないという真実を教えるための教訓劇なのです。

愚者は、その劇を真実でいつまでも続くものだと思い、

悲しい場面で泣き、

幸せな場面が長続きしないと歎き、

さらには、その劇が最後には終わってしまうと悲しみます。

苦悩とはそうした霊的盲目への戒めなのです。

しかし賢者は、そのドラマを観て、それがまったくの「まやかし」であることを知っているので、

内なる自我の中に永遠の喜びを探求します。

生命とはその扱いを知らないものには、恐ろしい機械装置のようなものです。

遅かれ早かれその人自身を灰にしてしまうのですから。

 

-パラマハンサ・ヨガナンダ

 


 

在するすべてのもの

起こっているすべての現象

そして、考えられているすべての思考

それらはすべて夢です。

その理解から、決して離れないでください。

 

それからあなたは、絶対的な非我の認識で

自分自身を訓練してください。

あなたが「私」と思っているものは

 

 全く真理ではなく

 薄っぺらい何かであリ

 実体がない何かであリ

 はかない何かであリ

 無常なる何かであリ

 かすかな何かです。

 

あなたがこのように悟るならば

すべての現象が夢のようであるということは

よリ明確に理解されるでしょう。

 

-ロンチェンパ 『安らぎを見つけるための三部作』

 


 

この世はどこかよその土地で、ただちょっと仕事をしに来ているだけ・・・・・・という感じになる。

故郷に家屋敷があるのだが、カルカッタに仕事があるから、そのためにカルカッタに家を借りて住んでいる、というわけさ。

神を愛するようになると、この世への執着や、俗っぽい感覚からすっかり抜け出せるようになるよ。

 

-ラーマクリシュナ・パラマハンサ

 

 


 

 

「我々は、

個々が別個の存在であるという幻から

目覚めるためにここにいるのだ」

 

- ティク・ナット・ハン

 ティクナットハン


 

幸せでありなさい!

あなたは歓喜、限りない歓喜だ!

あなたは気づきそのもの。

ロープを蛇と見間違うように、あなたは世界を見間違えたのだ。

アートマン(真我)は世界のように見える だが、それはただの幻。

アートマンは遍く存在している。

一つであり、静かで、自由で、完全だ。

行為も執着も欲望もなく、全てのものごとを見守る照覧者、

気づきなのだ。

一枚の布きれを見てみなさい。それはただの糸でしかない!

同じように、森羅万象も間近に見ればアートマンでしかない!

アートマンが知られないとき、世界は現れる。

アートマンが知られれば、世界は現れない。

だが、あなたはロープを蛇と見間違えたのだ。

ロープと分かれば、蛇は消え去る。

一から二が生まれる! これが苦しみの根源だ。

私は二のない、一なるもの 純粋な気づき、純粋な歓喜だ。

全世界は「彼」の姿でしかない。ただそれだけを悟りなさい。

それ以外に救われる道は無い!

 

- アシュターヴァクラ ・ギーター


 

もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるのならば、

世界を非実在として受け入れる以外に方法は無い。

その理由は明らかだ。

世界は実在だという考えをあなたが棄て去らない限り、

あなたのマインドはいつも世界を追い求めるからである。

存在するものは実在だけであるにも拘わらず、『現れ』を実在と見なせば、

実在そのものを知ることは決してできないだろう。
.

このことが、ロープの中の蛇という類比によって説明されている。

あなたは騙されて、一本のロープを蛇だと信じこむかもしれない。

そこに蛇を見ている限り、ロープを見ることはない。

あなたにとっては、実在しない蛇が実在し、

本物のロープが全く実在していないように見えるのである

 

- ラマナ・マハルシ

 


 

質問者(ヨガナンダ)「なぜ神は、この世に苦しみをあらしめているのですか?
神は全能の力で、たちどころに苦しみを取り除き、宇宙全体に神の実現を命ずるべきではありませんか?」

ラマナ マハルシ「苦しみは、神を実現するための手段なのだ」

質問者「別の方法を定めるべきでは?」

マハルシ「それが神のやり方なのだ」

質問者「ヨーガや宗教は、苦しみに対する解毒剤なのですか?」

マハルシ「それらは苦しみを克服する助けとなる」

質問者「なぜ苦しみがあるのですか?」

マハルシ「誰が苦しむのだろうか?

苦しみとは何だろうか?

ジニャーニ(覚者)を除いて、王様から農民まで、全ての人が何らかの悲しみを持っている。

たとえそれが存在しないように見える場合にさえ、
それはただ時間の問題であり、遅かれ早かれそれはやって来る。

また、人は初め、悲しみや神について問うことはなくても、
しばらくすれば、恐らくその問いを発するだろう。

我々は、自らの真の状態を知るために、この乗り物(身体)に乗って来たのである。

 

内に向き、自らを探求しなさい。

そうすれば、世界とその苦しみは共に終わる。

身体の意識が去る時、苦しみも去る。

 

世界はあなたの外側に無い。

あなたが誤ってあなた自身を身体と同一視しているため、

あなたは世界をあなたの外側に見て、

その苦しみがあなたにとって明らかになる。

しかし、世界とその苦しみは現実ではない。

現実を探求し、この非現実の感覚を取り除きなさい。

自分自身の理解が、苦しみの終焉である。

その境地において、

自ら(真我)のみが、あらゆる人、あらゆるものの中に見られるため、

利己性についての質問は起こらない。」

 


 

順次更新していきます。

関連記事: