インドでもっとも有名で、そして最も効果があるマントラで、マントラの王と呼ばれるものが、ガヤトリー・マントラです。

多くの聖賢たちが、その効果、偉大さを褒め称えています。

このマントラは神様が与えてくれた至宝かもしれません。

このマントラさえあれば、本当はインド占星術なんていらないのかもしれませんね。

数あるガヤトリー・マントラの中でも、太陽神・サヴィトリーに捧げられるガヤトリー・マントラがもっとも神聖なマントラとされ、朝、昼、晩に3回ずつ唱えることでその日に犯した罪はすべて帳消しにされるといわれています。

また毎日数マラ(1マラは108回くり返すこと)を唱えることによって、今生でも来世でも、あらゆる幸運と恵みがさずかるともいわれています。

 


 【発音(英語)】

OM

BHUR BHUVA SVAHA

TAT SAVITUR VARENYAM

BHARGO DEVASYA DHEEMAHI

DHIYO YO NAH PRACHODAYAT

 

【発音(カタカナ)】

オーム

ブール ブワッ スワハ

タット サヴィトゥール ワレーニャム

バルゴー  デーヴァッシャ ディーマヒ

ディヨー  ヨーナ プラチョーダヤー(トゥ)

 

【日本語訳】

訳が困難なため、日本語訳はいろいろあります。何種類か載せておきますm(__)m

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オーム

光は天と地と大気に満てり

光より栄光、光輝、恩寵流れいづ

光である内在の英知を

神よわれらに目覚めさせたまえ

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オーム

物質的な世界 微妙な心の世界  因果の世界

あの  宇宙の究極の実在を  あがめます

この究極の輝き  叡智の実在を、 深く瞑想します

叡智によって われらが光となり、究極の実在と一つになることができますように。

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オーム

存在の主よ、意識の主よ、恵みの主よ、三界の創造主よ、

私たちは超越的光であるあなたを瞑想します。

どうか私たちの知性を照らして下さい。

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おお母よ。

三つのカーラ(過去・現在・未来)の全て、

三界(欲界・色界・無色界)の全て、

三つのグナ(ラジャス・サットヴァ・タマス)の全てに偏在する者よ。

私はあなたに祈りを捧げます。

私の知性を照らし、無知を取り払ってください。ちょうど輝く太陽があらゆる闇を払うように。

どうか私の知性を浄め、輝かせたまえ。

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※単語・意味の詳しい解説は、この一番下に載せておきます。

 


【動画】

最も有名なマントラなんで、いろんなヴァージョンがあります。

発音が大事なんで何度も聴いてくださいm(__)m

 

 

 


【解説(詳細版)】

各文・単語の詳しい意味を以下に解説します。

 

1. AUM(OM)

神の最高名。原始音。聖音。ブラフマー神の象徴。ブラフマーはこの音で世界を作ったとされる。

 

BHUR BHUVAH SWAH 

 

これらの三つの言葉を総称して「Mahavyahriti」として知られています。これらは、神本来の性質・特性を示しています。

2. BHUR(भूर्)

まず最初に、Bhurという言葉は「存在」を意味します。神は、自己存在(self-existance)しており、他から影響を受けず独立しています。彼は永遠不変で、始まりも終わりもなく、神は恒久的に続く実体として存在しています。

第二に、Bhurという言葉はまた、我々が生まれ、持続されている「地・現世(the Earth)」を、意味します。神はすべての提供者であり、私たちの生活を維持するために必要とするすべての恵みは、彼の神の意志によるものです。

最後に、Bhurは「プラーナ」、または「生命(文字通り「息」)」を意味します。神はすべてに命を与えるということです。神は何にも依存していませんが、すべては神に依存しています。それは彼がそのように選択したときに、私たちは生命を与えられ、我々の生活を維持し、そして神だけが生命を取り去る能力を持つ。唯一の永久的な存在であり、他のすべては彼自身の意志の対象物(subject)となります。

 

3. BHUVAH(भुव:)

Bhuvahという言葉は「神の絶対的な意識」を説明しています。神は自己意識だけでなく、他のすべてを意識することであり、したがって、宇宙を制御し、管理することができます。

また、Bhuvahという言葉は「天の世界との関係」に関するものを示します。それは、空と宇宙より大きい神の偉大さを表しています。彼は無限と無制限です。

最後に、Bhuvahはまた、すべての痛みや苦しみ(Apaana)の除去という神の役割を示しています。我々は痛みと悲しみ経験します。しかし、神への祈りを通して、私たちはその痛みや苦難から免れることができます。神ご自身はいかなる苦しみもありません。彼はすべての意識であり、したがって、痛みを知っていますが、それは彼に影響を与えません。マーヤ(幻影)の影響を受け、錯覚し、苦しみの原因となるのは私たち自身の無知です。神への真の献身を通じて、マーヤー(幻影)の呪縛から解放することができ、痛みと悲しみを取り除くことができます。

 

4. SWAH(स्व:)

Swah神のすべてに充たされて広がっている性質(all-pervading nature )を示します。彼は遍在で、いくつもの宇宙に浸透しています。神は決まった形態を持たないですが、彼は物理的な世界の媒体を通してご自身を発揮することができ、そのため我々一人ひとりに存在しています。このように、神は彼によって産み出された宇宙と相互に関わることができるので、それを維持し、制御し、その円滑かつ適正な実行・作用することができます。

また、Swah神の至福を象徴しています。神以外のすべてが、痛み、苦しみと悲しみを経験します。このような苦しみなく、神のみが至福を体験することができます。人間が経験する幸せは、一時的なものであり、つかの間の心の満足感であり、それらはすぐに世俗的なトラブルの泥沼に戻ってしまいます。完璧で、いかなる欠陥もない神のみが、世俗的な痛みや悲哀による影響を受けることなく、真の恒久的な至福を経験することができます。神を実現する人は、この至福に加わることができ、よって神は、その最高の神性との合一を確立する人々に、真の幸福を分け与えることができます。

 

TAT SAVITUR VARENYAM (तत्सवितुर्वरेण्यं)

 

5. TAT(तत्  s. 1)

tatは、文字的には、この言葉は、サンスクリット語で「あれ・その(that)」を意味し、第三者を示すために使用されている。また、スリ・クリシュナご自身がバガヴァッド·ギーターに述べているように、この語は「無私の性質」を意味する言葉です。この言葉は三人称で使用されて、その中に無私無欲の意味をその中に暗示しています。スリ・クリシュナは、この言葉を無償の愛としての無私の特性を示すためにこの言葉を使用しています (無償の愛や与えることなど、崇拝の比喩として使用されており、結果にとらわれることなく、献身・義務感・正義から行為するべきことを暗示している)。tatは、このガーヤトリー·マントラにおいては、崇拝者が祈りの中で「その」と言うことで、祈りの中で神に捧げられている言葉が、その賞賛から任意の個人的な利益を得ることを考えずに、純粋に彼に向けられていることを指し示している。

 

6. SA-VI-TUR(सवितुर्  s.2-4)

サビータ(Savita)Saviturから由来し、これは神のもう一つの名前です。ガヤトリー·マントラが、サヴィトリー・マントラとして知られている理由でもあります。サビータ(Savita)の含意は、湧き出る泉を差し、すなわち存在するすべてのものの源泉としての神の地位を示しています。それは、宇宙が存在していることを彼の神の恵みによるものであるので、この言葉は、宇宙を創造し、それを維持し、ならびに、適切なタイミングで、その崩壊をもたらす能力を記述することで、Mahavyahritiを要約してまとめています。また、サビータ(Savita)は人類への神の贈り物を示しています。

人間はまたサビータ(Savita)の限られた価値、力、またはシャクティを持っています。このシャクティは、人間の推進力として作用し、人が何かをするための必要不可欠な力をもたらします。彼らは、怠惰な状態にはなれませんし、常に何かすることを探しています。これは一般に「創造的衝動」として知られているものです。それは人類が芸術を創造したのは、このシャクティを通じてであり、また科学の進歩がしていることも、このシャクティを介して行われます。また、サビータ(Savita)の贈り物は生き物に生殖の機能をもたらします。したがって、サビータ(Savita)は父(または母)を意味するとも考えることができます。

最後に、サヴィータ(Savita)の力は、人に善悪、美徳と悪徳を区別する力を与えます。この能力によって、我々はある程度、自己を管理することができ、従って、サビータは私たちに一定の自己を律する能力与えてくれます。このように、マントラの中でこの言葉を使用することによって、我々は自分自身で努力することを明示します、なぜなら、私たちは自分自身を助けるために努力している場合を以外は、神は私たちの助けにはならないですから。

 

7. VA-RE-NY-AM(वरेण्यं s.5-8)

Varenyamは「私達の神の受け入れ」を意味し、また、「価値がある」という意味に訳することができます。世俗の物質的な富を得る時はいつでも、それらが達成された後、失望が待っています。しかし神は、一度実現し、達成されれば、真に満足させる能力を有しています。したがって、我々は最高の真実として神を受け入れて、我々の努力は彼にを捧げるのである。Varenyamもまた、適格であるものと意味することと訳すことができる。我々は、神が私たちの指導者であり、私たちの指針となることを選択しました。私たちは、彼の手に私たちのすべてを全託し、またそれがどのようなものであっても関係なく、神を受け入れます。そして、それらがすべての完全なる献身からであるように、私たちは無条件にこの受け入れを行います。

 

BHARGO DEVASYA DHIMAHI (भर्गोदेवस्यधीमहि)

 

この3連句は、神の属性や資質のさらなる説明である―本質的な資質よりはむしろ、彼の機能や有益な特質―それらの特質を通して、私たちに彼の関係を説明している。

8. BHAR-GO(भर्गो s.1,2)

Bhargoは「神の愛と力の栄光の光」を意味すると解釈されます。それは神の完全な純粋さを示しています――また、神自身、完全に純粋なものですから、神はまた彼に触れたものを浄化する力を持っています。したがって、Bhargoは清浄にする神を力を示し、すべての罪と苦難を破壊する神の力を差し示します。鉱石を火にくべて溶かすと、純粋な金属が生み出されるように、神との融合により、または彼の神性を悟り、神との合一や一体感を確立することによって、 我々は神の恩寵により自分自身を清め、純化することができます。魂は、我々の本質の中の神そのものであり、光り輝いているが、マーヤーの闇のからくる罪と悪徳により不純なものが作られ続け、光沢を失ってしまっている。マーヤーのベールを除去し、私たちの魂を浄化することにより、神はその魂に真実とそれ自身の神性を悟らせ、浄化することができます。

 

9. DE-VAS-YA(देवस्य s.3-5)

このDevaという言葉は、その由来より、異なる人々によって、多くの異なる方法で翻訳されました。その言葉は、一般的には単に「神」として考えられています。しかし、その意味は、それよりも複雑です。「Deva」は、「Devata」と「Devi」という言葉がルーツであり、これらは「性質」または「属性」を意味し、そのため、この単語は「グナ(guna)」を示す別のもう一つの言葉であると考えることができます。神々のそれぞれの形態は、特定の性質と機能に関連してい名前がつけられているように、神の様々な形態にこの名前を与えられている。(例えば、ブラフマーは創造の性質であり、カーマデーヴァは愛の性質など)。また、このように「Deva」は、特別な性質を有すると考えられている人を表すために使用される。

このように、Devaは神の個性の象徴であることから、この言葉は、異なる形態の神々が本来一つであること(oneness)を示しており、従って、この言葉の使用は、神の根本的な唯一性(unity)を表していると理解することができます。したがって、私たちはここにおいて、、「Ekam sat viprah bahudah vadanti」(「真理(または神)は、一つだが、賢者はそれ(彼)を様々な名前で呼ぶ」)というヒンドゥー教の教理(ダルマ)の核心的信念を再確認するに至ります。

したがって、「Deva」神の絶対的な性質を、様々な多面的な実体として指し示す言葉であります。それは、一言で全ての機能、役割、神の異なる属性を表し、そのため、神なしには何も存在しないという、神の絶対的に不可欠な性質を象徴しています。

 

10. DHI-MA-HI(धीमहि s.6-8)

dhimahi瞑想私たちの心を神に集中することを意味します。この世の思考というものがあると、私たちの心を不純にし、そのため私たちは神の絶対的な純粋性を概念化することができませんので、神への瞑想は、私たちの心からの他のすべての思考を取り除くこと意味しています。私たちは集中し、そして目の前にある私たちの精神的なエネルギーを神に向けなければなりません ―それが神との交わりです。

 

DHIYO YO NAH PRACHODAYAT (धीयोयोन:प्रचोदयात्)

 

祈りは、主に4つの理由のために行われます。

  • 神を賛美し、美化する
  • 神に感謝する
  • 神からの許しを請う
  • 神からの要求を行う

他の三つのパート(・彼の偉大さの賞賛、・我々を創造し維持してくれているという神の優しさへの感謝、・神との接触によって浄化されなければならない不純な意識を示すことによる贖罪)がありますが、このパートは、神からの私たちの要求です。私たちの魂は裡なる生命の光であり、それは脳という媒体を通して私たちの体を動かしますので、私たちは、この神とのコンタクトが純粋で正しいものになるように神に依頼をします。魂は本来の性質をして神そのものであることはもちろん、本質的に純粋であります。体は心(mind)の完全な制御下にあります。心は魂だけはなく、外の世界にもリンクし、影響されます。私たちは、これらの4つの単語の中に、神が私たちの知性を向上させ、そしてその知性を正しいものに向かって導びいてもらえる様に、神の助けを願います。

 

11. DHI-YO(धीयो s.1,2)

dhiyoはサンスクリット語で「知性」を表します、これはガヤトリー・マントラにおけるこのパートの本質(エッセンス)です。しっかりと私たちの心の中で神を定め、私たちの心と知性に神の存在感と影響力を強める必要があります。物質的な繁栄は、本当に神に捧げている人のための真の意味を持ってはいません。痛みや苦しみは、彼に結果ではありません、神が触れた時、神は神ご自身の神性な至福を染み込んで、すべての世俗的な悲しみをその至福に比してない物と思えるように和らげてくれます。しかし、まだ私たち個人はこの世界に住んでいる必要があります。そのため、その人の知性が、その身体を用い最大限の能力を持って、神に仕えることに焦点を当てることが重要です。

その人が賢く、十分に知識があるなら、物質的・肉体的な物は非常に容易に得ることができます。しかしながら、知性は得ることはできません。実際のところ、知性を用いることによって、その人は他の資質・能力を開発していくことができます(富の構築、物質的な成功、肉体的な快適さ など)。このように、知性がすべての鍵であり、私たちの最も重要な所有物です。私たちはガヤトリー・マントラの中で、最高の知性との私たちを贈って頂けるように、神に祈ります。

 

12. YO(यो s. 3)

yo「誰か(who)」または「その(that)」を意味します。Yoは、祈る人を導けるのは他の誰でもなく、神だけであることを再び示しています。神だけが、唯一最も高く崇敬する価値があり、神のみが唯一は完全で無謬性(free from all defects)を持っています。我々がこれらの祈りを捧げるのは、その神自身であります。

 

13. NAH(न: s. 4)

Nah「私達のもの」を意味し、私たちはガヤトリー・マントラのこの部分で、私たちの要求が無私無欲であることを示しています。我々はこの祈りを、単に自分たちのためだけではなく、人類全体のために捧げ、神への要求とします。私たちは、社会全体の向上を求めています。ヒンドゥー教の哲学は、当初から「Vasudhaiva Kutumbakam」 – 「全世界が一つの大きな家族です」という概念を持っています。このように、我々はすべての愛する神の偉大さと寛大さからのすべての利益を得ることができるように、自分たちのためだけではなく、その偉大な家族の一人ひとりのメンバーのために祈ります。

 

14. PRA-CHO-DA-YAT(प्रचोदयात् s.5-8)

ガヤトリー・マントラの最後の言葉であるPrachodayat、は、「与えてください」という意味で、このマントラ全体を締めくくります。そして、私たちはこの最後の部分で、我々の作る神への要求を完了します。この言葉は、神からの要求であり、神が私たちに導きとインスピレーションを与えてくれることを願い求めるものです。私たちは神の神性と栄光の光(参照:BHARGO)を示すことによって、私たちの進む道からマーヤーの闇を消し、そうして私たちは道を見ることができすようになります。このように、私たちは神に、私たちのエネルギーを正しい方向に向け、この混沌とした世界から私たちを導き、安穏と神の平和の中に聖なる場所と、すべての幸福のルーツ、および真の至福を見つけ出すことを祈り願います。

 

 

参考HP: http://www.eaglespace.com/spirit/gayatribywords.php


 

サイババによる解説

比較的、簡単な英語です(↓)

「ザ・ガーヤトリー」(サイ・オーガニゼイションより)

http://www.sathyasai.or.jp/mikotoba/pdf/VISON_OF_THE_DIVINE.pdf

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