メルマガのコラムと格言からの転載です。


最近、児童虐待死の事件が相次ぎますね。

藤本羽月ちゃん、新井礼人くん・・・この手の事件は、一番悲しいです。
今回(礼人君)は、目が合ったという事で、激しい暴行を加えたそうです。

この手の事件は、数年前なら加害者に対して大きな怒りが出ましたが、今は加害者に対する批判や怒りは出ません。
ただ悲しいだけです。
それは、カルマの法則を完全に信じているからです。
カルマの法則は以前も信じていましたが、私の中ではもう「事実」と呼べるまでの確信になりつつあります。

カルマ則を確信するとどうなるか・・・加害者に対しても憐みが出ます。

加害者と被害者は同じです。
加害者は自分自身を傷つけているのと変わりません。
加害者は将来、同様の苦しみを受けるでしょう。
そして、今回と同じように、周りが彼に悲しみを示すでしょう。

そうなることが想像できるから、もう悲しいだけで、怒りは出なくなりました。
被害者に対しても、加害者に対しても、ただただ悲しいだけです。

 

今回の事件は、目が合った・睨まれたという事で腹が立ち、3歳の子に暴行を加えたそうです。
人はなぜ怒るのでしょう・・・怒り・攻撃性はどこから来るのでしょう。

怒りとは、傷つけられたと解釈した心に対する反応です。

だから、傷つきやすい人ほど、怒りやすいし、攻撃的になりやすい。
弱い犬ほど良くほえるというは的を得ています。
弱いから、相手に牙を見せていないと不安でしょうがないのです。

やくざやチンピラは強くて怖い人と思われていますが、実際はその逆です。
人に強く見せることのその中身は、傷つけられることへの恐れの裏返しです。
弱いから、強く見せようと虚勢を張る。
本当は、最も傷つきやすく弱いのは彼らなのです。
弱いから、攻撃的なのです。

彼らは肩がぶつかっただけで、睨まれただけで、傷つけられたと感じてしまう。
そんな小さなことで、自分の中の何かが奪われたと感じてしまう。
それを回復させるため、自己保存のため、相手を傷つけたり攻撃する。
弱いから、小さなことで傷つく。
強い人は傷つかない。傷つかないから攻撃的にならない。

 

私たちが傷つくのは、本当は他人のせいではありません。
実際は、他人の言葉や態度を契機として、心が何かを奪われた・傷つけられたと解釈するからです。
それは自我(エゴ)やプライドが、“自分は傷つけたれた”と錯覚・勘違いしているだけです。
要は、自分の心が作り出したまぼろしです。
私たちの真の本質は、誰がどう非難をしようが変わることはありません。

私たちの世界に加害者を出現させていたのは、即ち私たち自身です。
自分を守りたかったからです。
そうさせたのは自分が傷つくことへの恐れなのです。

私たちが本当に傷つかなくなった時、他人を傷つけることもなくなるのでしょう。

 


コラムに関連して、「傷つけられること」への対処法が書かれている聖典です。

————–

『シュリーマッド バーガヴァタムより』

 

ウッダヴァは、言った。

「おお。全宇宙のアートマーなるクリシュナよ!

他人にあざけられ、侮辱され、不正なことを言われながらも、
内なる平安をと静けさを保っていることは、実に困難です。

あなたの道に従う強さを得られますよう、
どうか私に教えをください。」

シュリー・クリシュナ神は、語った。
「確かに、悪人の辛辣な言葉に心を刺されながら、
内なる平安を保つことは困難なことだ。

ウッタヴァよ!
そのような時にも耐えたある托鉢僧の話をしよう。

昔、アヴァンティーという所に、非常に裕福な僧が住んでいた。
しかし、彼は大変貪欲で財産があっても、
他人だけでなく、自分のためにも使うことさえない、けちな性格のため、
どんな客や友人、親戚にも優しい言葉で迎えられず、
家族からも軽蔑されていた。

ところが、ある時、彼は、蓄えていた富を全て失い、
一文無しとなってしまった。

自分自身をかえりみれば、
ただ後悔にむせび泣くばかりであり、
この世の虚しさとはかなさをつくづくと知った。

彼は、自分にこう語った。

『ああ、なんと悲しいことか、
私が狂ったように求めた富は
幸福をもたらすことはなかった。

金はあっても欲望はなくなりはせず、
それどころか、財産を失いはしないかと、
いつも不安と恐れのなかで生きるのだ。

盗み、残忍さ、偽り、見せびらかし、欲望、怒り、プライド、
傲慢、不和、敵愾心、不信、競争、性、酒、賭博、
これら15の罪悪は、財産が原因であるそうだ。
そして、僅かな金のために親戚知人さえも敵に変わってしまう。

人間としての誕生は、
ブラフマンを知る解脱へと通じる”門”なのだ。

金や空しい富を追い求めず、
その精力が正しく賢明に使われるならば、
解脱への門へ導かれるであろう。

いわゆる賢者と呼ばれるような者であっても…
どうして、欲望に悩まさされてしまうのか?

この世界は、きっと、何か測り知れない力によって、
幻惑されているに違いない。

しかしである!
神様は、私に慈悲をかけてくださったのだ!
なぜなら、この世にうんざりさせて下さったからである。

世界に対するこのような気持ちは、あたかも船のように、
輪廻転生の生と死の大海を渡るのを助けてくれるものだ。

私は、残りの人生の歳月をかけ、禁欲生活を実践し、
真理の探究への修業に身を捧げよう。

最高善へといたるための実践は、
真の自己への瞑想によってのみ、
喜びを見出すことを教えてくれるだろう。

ああ、神様!どうかこの私を祝福されたまえ!』

彼は、このように、決意し、心の束縛を解くことに成功し、
質素で穏やかな探求者と変貌した。

町の人々が彼をみかけても、誰もわからなかった。

この老いぼれた僧を見て、心ない人々は、
侮辱的な言葉でけなし、
あらゆる方法で彼の身体を傷つけた。

しかし、彼は、じっと耐え、
どんな障害にも屈せずに、尊き道を歩んだ。

絶えず罵詈雑言を浴び、虐げられながらも、
彼は、このような歌をひとり歌っていた。

『聖典は言う
”心のみが唯一なる苦悩の原因である” と。

生死の輪を旅して回るのは、心なり。

心は、善性、動性、暗性から、様々な様相を創出し、
白、黒、赤で象徴される多くの行為が生じ、
次の誕生と生活は、それらの行為の特質によって、導かれる。

真の私は、心に影響されず、自らの光輝に浸っている。
神は私であり、制御者であり、全ての思いの観察者なり。

丁度、物が鏡に映るように、
この世界の経験は、真の私の上に映しだされている。

しかし、人は、自分自身を心や、その様々な状態と同一視し、
自らの欲求を満たそうとし、突進するのだ。

全ての神々は、心のもとにあり、
心は、決して何者にも制御されず、
”心は、もっとも手ごわい者よりも手ごわい、恐怖の神なのだ!”

だからこそ、心を自己の制御下に置く者は、
神々の中の神と言われるのである。

制御されない心は、征服できない敵である。
その攻撃は、耐え難く、その武器は、実に急所を貫く。

愚かで無知な者たちは、この真の敵を克服しようとせず、
外にある人や力とむなしく戦い、
敵、見方、中立者を作っているのだ。

このような愚かな者達は、心の産物に過ぎない肉体を
”私”とか”私のもの”であると思いこみ、愚かにも、
「私は、こういうものであるが、あの人はそうではない。」
と考える。

そのようにして、
当惑と憂慮に満ちた果てしない荒野をさまようのである。

もし、誰かが、自分を幸福や不幸にしていると感じても、
実際に私達は、幸福でも不幸でもない。
なぜなら、真の私たちは、皆、唯一なるアートマン(真我)だからである。

幸福や不幸を感じるのは、
自分自身を肉体であると錯覚しているからなのだ。

神々が、自分に苦悩を与えていると感じても、
”自分自身は、どのような苦悩とも関わりがない”
と思惟すべきである。

私達は、不変なる意識、アートマンだからである。
そして、全ての変化は、感覚に由来し、
感覚のみが変化の影響を受けているだけである。

真の私には、幸、不幸の原因はない。
もし、そう思うならば、それは幻想である。

故に、いったい誰に怒るべきか?

天体の星が、幸、不幸の原因であったとしても、
真の私には、関係がない。

星の影響は、”誕生するもの”に影響するが、
真の私は、誕生とも破滅とも無縁なのである。

故に、いったい誰に怒るべきか?

もし、行為が、幸、不幸の原因であっても、
真の私には、影響しない。

真の私は、決して行為者ではなく、
欲望から駆り立てられることなどない
全てに満ち足りている存在である。

故に、いったい誰に怒るべきか?

時が、その原因であっても、真の私には、無縁である。
何故なら、時間とは、
心の中にのみ存在するものだからである。

故に、いったい誰に怒るべきか?

真の私には、二極の対立などはなく、
どのような現象にも影響はされない。
相対の世界を幻出しているものは、
”見せかけの自己(エゴ)”なのだ。

悟りにある賢者には、”恐れ”がない。
なぜなら、彼らは、事物や心の変化に影響されないからである。

この境地を揺るぎなくするために、
私は、神の御足をあがめ、真の私へ帰依するのだ。

そうすれば、必ず、
私は、果てしない無知の荒野を渡れるであろう!』

シュリー・クリシュナは、言った。

「これが、悪人たちにけなされながらも、
平静さを忘れず、真理から離れない聖なる探求者の歌なのだよ。

人生の喜びや悲しみの原因は、
自分の外にはどこにもなく、
それらを生じさせているのは、幻惑された心なのだ。

私の愛する者よ!
心を私に向け、あらゆる方法で心を制御しなさい。

これが、ヨーガの本質なのだから。」

 

-日本ヴェーダンタ協会 シュリーマッド バーガヴァタム 265~271P 

関連記事: