メルマガのコラム・格言からの転載です。


 

私は仏教、特に『禅』が好きなので、度々紹介していきます(←これまでも、一休や良寛、慧可、僧璨などを紹介しましたが)
今日は白隠禅師について紹介します。

白隠禅師は

「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」

と謳われたれた名僧です!

江戸時代中期、今から250年ほど前にお生まれになられた方で、臨済宗中興の祖と仰がれています。釈迦、観音、達磨などの禅画をたしなみ、生涯、百姓や町人の中にあって平易な禅を説き続けました。

白隠禅師にはこんな逸話があります。


白隠さんは駿河の原宿(現在の静岡県沼津市原)の松蔭寺に住しておりました。

あるとき、村の娘が父なし子を産みました。
娘の父親は、だれの子かと問い詰めましたが、娘は頑として相手の男の名は口にいたしません。
しかし、とうとう耐えきれずに、白隠さんの子だとウソをついてしまいました。
父親が日ごろから敬愛している白隠さんの子であれば、許してもらえるだろうという娘の浅知恵でした。

もちろん白隠さんは、身に覚えのないことです。

娘の父親は松蔭寺に駆けこむや、
「この生グサ坊主!よくも娘をキズものにしたな。お前の子だ、受けとれ」
と怒鳴りながら、赤ん訪を突き出しました。

白隠さんは何の言い訳もせず、
「ああ、そうか」
と赤子を受けとりました。

この日は飴湯や米の粉をといて与え、翌日からは村中を「もらい乳」して歩き回りました。
それまで、高僧・傑僧として尊敬されている白隠さん、一転してとんでもない破戒僧とさげすまれ、弟子たちはもちろん信者も離れていきました。

それにもかかわらず悠然ともらい乳して歩き、赤子を親身になって育てる白隠さんの姿に、
当の娘のほうがこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。
驚いた父親は、さっそく白隠さんに非礼をわび、赤子を返してほしいと恐るおそる申し出ました。

このときも白隠さんは
「ああ、そうか」
と、泰然として赤子を返したといいます。

白隠さんの心は、他人の子でも育てようとする慈悲にみちた仏性そのものであったといえましょう。

「仏教の生活」平成2年号彼岸号より


白隠禅師は、言い訳も弁解もせず、起きてくることをただ受け入れました。
私たちは自己を正当化しようとして弁解につとめ、言いわけをし、自分が正しいことを主張します。
白隠禅師は、良くても悪くても「今」という瞬間の形をそのまま認めて、周りの事象には抵抗しませんでした。

起こる出来事を個人的なものとして捉えないから、彼は誰の被害者でもありませんでした。
起こった出来事に抵抗しようとすると、その出来事に翻弄され、幸福か不幸かを他から決められることになります。

 

〔白隠禅師坐禅和讃〕

以下の和讃は、白隠禅師が
「この身がそのまま仏である」ということを
子どもが聞いても理解できるように作られたものです。

臨済宗、とくに妙心寺派で良く唱えられています。
(※左の書き下し文が分りにくい人は、右の現代語訳を読んでください)


 

『白隠禅師坐禅和讃』

衆生本来仏なり

水と氷の如くにて

水を離れて氷なく

衆生の他に仏なし

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて

貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は

己が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏みそえて

いつか生死を離るべき

それ摩訶衍の禅定は

称嘆するに余りあり

布施や持戒の諸波羅蜜

念仏懺悔修行等

皆この中に帰するなり

一坐の功を成す人も

積みし無量の罪ほろぶ

悪趣何処に有りぬべき

浄土即ち遠からず

辱なくもこの法を

一たび耳に触るる時

讃嘆随喜する人は

福を得ること限りなし

いわんや自ら廻向して

直に自性を証すれば

自性即ち無性にて

已に戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ

無二無三の道直し

無相の相を相として

往くも帰るも余所ならず

無念の念を念として

謡うも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく

四智円明の月さえん

この時何をか求むべき

寂滅現前するゆえに

当処即ち蓮華国

この身即ち仏なり

 

迷える心を持つ
わたしたちも
本当は 仏なのです

それは ちょうど
水と氷のようなもので

水がないと氷が
できないのと 同じように

わたしたちを ぬきにして
仏は ありえません

わたしたちが
仏であることを 知らずに

あちこち 探しまわるのは
むなしいことです

それは、たとえば
水の中にいながら

水をください!
と 叫んでいるようなものです

本当は
とても幸福なのに
そのことに気付かず

「わたしは不幸だ」と
嘆いているのと
同じことです

いつまでも
苦の世界から
抜け出すことが できないのは

自分の境遇を
くよくよと 嘆くからです

その 長い長い
闇を通り抜けて

生きる・死ぬ という
想いから離れることが肝心です

そのために
「禅定=こころを落ちつける」
という行いは

わたしたちにとって
大きな支えとなることでしょう

他人への施しや
自身への いましめなどの
行うべきこと

ご先祖さまを おまつりすること
自分を反省すること

その品多き諸善行
さまざまな よい行いがありますが

それらはみんな
「禅定=こころを落ちつける」
の中に含まれるのです

ひととき、心をおちつけて
静かに坐った人は

悩みごとなど
実はなかったんだ、と
気付くのです

悪い出来事など
いったいどこにあると
いうのでしょう

極楽は
いま、ここに
あるのです

ありがたいことに、
この教えを

一度でも 耳にしたときに

深くほめたたえて
信じ、うけいれる人は

かならず
幸福を
手に入れることでしょう

ましてやみずから
ひたすらに祈り、
お唱えをして

本来の自分を
感じとることができれば

生きるとか 死ぬとか
男だとか 女だとかの
区別なく

その瞬間、すでに
愛着や煩悩から
はなれているのです

私たちは今、
仏と一体になったのです!

この ただひとつの
真実を歩んでいきましょう

真実には 本来
決まった形がないことを感じ

どこに行っても
そこにやすらぎを
みいだしましょう

こだわらず、
心おだやかに
毎日をすごせば

行いが そのまま仏法となり
まわりの人を救います

心は澄み切った
大空のように
自由に どこまでも広がり

煩悩を離れた
清らかなお月さまが
輝いています

このような時、
ほかに何を求めるというのでしょう

心が静まり、
究極のやすらぎが得られた今、

この世が
そのまま
極楽であり

この身が
そのまま
仏なのです

 

引用:http://shofukuji.net/5hakuin.htm

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