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『カルマと責任』

 

「人は自分のまいた種を刈り取らねばならない」

ということわざがある。

自分が惨めなのだとしたら、

それは惨めさの種をまいたにほかならない。

ほかの誰かがあなたを惨めにしたわけではない。

 

もちろん、まくことと刈り取ることのあいだには

大きな時間的隔たりがあるので、

その隔たりゆえに私たちは

他の誰かに責任があるのだと考える。

その大きな隔たりが私たちの目を欺く。

 

私たちは数多くの過去生において、

自分が自分自身に何をしてきたのかを知らないので、

急に何かを刈り取らなければならなくなって、

それがどこから来ているのかわからないとき、

外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。

それを見つけられないとなると、

私たちは何かをでっちあげる。

だが、これこそカルマの理論のすべてであり、

私たちは自分がまいた種を刈り取っている。

 

自らの人生のすべての責任を引き受けなさい。

もしそれが醜いのなら、その責任を感じなさい。

それが苦悩にほかならないのなら、その責任を取りなさい。

最初のうちは「自分が自らの地獄をつくりだしている」

ということを受け入れるのは難しいだろう・・・

だが、それも初めのうちだけだ。

じきに変容の扉が開きはじめる。

 

なぜなら、自らの地獄に責任があるのが自分なら、

私は自らの天国をつくりだすこともできるはずだからだ。

自分が自分のためにこれほどの苦悩をつくりだしたのなら、

私は多くの歓喜をつくりだすこともできる。

責任は自由をもたらす、責任は創造性をもたらす。

 

自分の今の状態は自分自身が作り出したものだ、と見抜くとき、

あなたはすべての外側の原因と状況から解き放たれる。

 

今やそれは自分しだいだ。

美しい歌を歌うこともできるし、

美しいダンスを踊ることもできるし、

祝祭の生を生きることもできるし、

あなたの生を絶えざる祭りにもなる。

誰もそれをじゃますることはできない。

 

これが人間の尊厳だ。

神は<個>を大いに尊重する。

人は自らの責任を自らの肩に担ったときに

初めて<個>になる。

 

-OSHO

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