メルマガからの転載です。 和尚のきわめて禅チックな言葉です。


 

『本当の月』

ある晩、キルマンにすむイスラム教徒の大詩人アウハディーが、縁側に座り身をかがめて器を覗き込んでいた。
スーフィーの偉大な神秘家、シャムス・イ・タブリーズがたまたまそこを通りかかった。
詩人とその行動がタブリーズの目にとまった。

彼は、「何をしているのだね?」と詩人に尋ねた。

詩人は、「鉢に映る月に瞑想しているのです」と答えた。

タブリーズは大声で狂ったように笑い出した。
詩人は気分を害した。
近くにいた連中が集まってきた。

詩人が言った、「何ですか。なぜそんなに笑うのですか。なぜ馬鹿にするのですか?」

タブリーズは言った、「首が折れているのならともかく、そうでなかったら空の月を直接見ればいいではないか」
 . 

月はそこにある・・・満月がそこに。
だがこの詩人は、水の入った鉢の傍らに腰を下ろし、鉢を覗き込んでいる。

経典に真理を求めたり、哲学に真理を求めたりするのは、月影を見ることだ。
誰か他の人に自分の生き方を尋ねるとすれば、それは問違った助言を求めるということだ。
その人は自分の生のことしか語れないのだから。

絶対に、絶対に二つの生は同じではない。
他人が語ったり、教えたりできるのは本人の生以外にない - それもその人が生を生きていればの話だ。
他人から聞いたのかもしれない、他入の真似をしているのかもしれない。その人自身、模倣者なのかもしれない。
となると、それは写しのまた写しだ。
幾世紀にも渡って、人々は写毒写しのそのまた写しを写し続けている。

本物の月はいつも空にあって、あなたを待っているのだが。

それはあなたの月、あなたの空だ、直に見ればいい。今すぐに。
どうして私や人の目を借りるんだね?
あなたには目が-すばらしい目があるじゃないか?見なさい。直に。
どうして人の理解を借用しようとするんだね?

私にとって理解かもしれない。
だが借用した途端、あなたにとっては知識になる。
もはや理解ではない―このことを忘れないように。

自分自身で体験して、はじめて理解となる。
私が月を見れば私にとっては理解だろうが、
あなたに語った瞬間、理解ではなく知識となる。

すると、それは言葉の上だけの、言語的なものに過ぎなくなる。
だが、言葉は一つの虚偽なのだ。

 

-OSHO 『死のアート』より

 

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