以前にも紹介した、「夜と霧」(←ナチス強制収容所の話)の著者、V.E.フランクルの逸話です。

「夜と霧」は「私の人生に最も影響を与えた本10選」(アメリカ国会図書館調査)にも選ばれてます。


 

『誇らしげに苦しみ、誇らしげに死んでいこう』

 

ある日のこと、餓死寸前だった囚人のひとりが倉庫からじゃがいもを盗んだ。
収容所当局は犯人を引き渡すよう命じ、さもなければ全員に一日の絶食を課すと言ってきた。
囚人たちは誰が犯人かは知っていたが、仲問を絞首刑にするよりはと、一日の絶食を選んだ。

その日の夕方、みんなが不機嫌でイライラしていた。
さらに悪いことに停電となり、バラックは真っ暗闇になってしまったのである。
囚人たちの怒りは爆発寸前になった。

そのとき、バラックの代表者が口を開き、最近自殺した仲間について話し、そうした白己放棄を防ぐにはどうすればいいか、フランクルの意見を聞きたいといって指名したのだった。

フランクルは寒さに震え、飢え、ぐったりし、イライラしてそんな気分ではなかったが、今こそ精神的な援助が必要とされているのだヒ思って跳ね起き、白分の考えを力説した。

彼はまず、今の状況はそれほど最悪なわけじゃないと、慰めを語った。
真にかけがえのない大切なものは、それほど失われていないのではないか。健康、家庭の幸福、職業、財産、社会的地位といったものは、取り戻そうと思えば、決してできないわけでもない。
一方、この収容所から生還できる可能性は、全体の五パーセントくらいであろうという、現実に立脚した意見も語った。だからといって、落胆し希望を捨てる必要は決してないことも。
なぜなら、未来はどうなるか、次の瞬問にはどうなるか、誰にもわからないからである。
しかも、未来はともかくとして、我々が過去において果たした豊かな体験は、何ものも、何人も、奪い取ることはできない。
過去の中で、業績は永遠に確保される。過去は消え去ったのではなく、別次元の中に保存された形で”存在しているのだ。

人生は、いかなる状況でも、それ自体で意味をもっている。
だが、その意味の中には苦悩も死も含まれるのだ。
すなわち、苦悩すること、死ぬことは、決して無意味どころか、人生を意味あるものにするのである。
苦悩も死も、それ白体が意味なのである・・・

フランクルは、暗闇の中で熱く語り続けた。
我々の生への戦いは、なるほど絶望的かもしれない・・・だからといって、その戦いの意味や尊厳を少しも傷つけるものではない。
困難な状況にある我々、また、近づきつつある最期の時を迎える我々を、誰かが見ている。友が、妻が、生きている者が、あるいは死んだ者が、そして神が見ているのだ。
その者は、我々に期待している。我々の生きざまを見て失望しないことを。
我々が哀れに苦しまないで、誇らしげに苦しみ、そして死んでいくことを期待しているのだ。
もしも我々がそうするなら、哀れに苦しんで死んだ場合に彼が受けるであろう失意と苦しみから、我々は彼を救っていることにならないだろうか?

それゆえ、犠牲には意味があるのだ。深い信仰のもち主ならよく知っている。
ある仲閲は、愛する者たちの苦痛を取り除いて欲しいと天に祈った。
そのかわり、彼らのぶんまで苦痛を引き受けると約東した。
以来、彼にとって苦悩は、意味をもつものになったのである。

我々も、愛する者たちを苦痛から救うために、自らを犠牲にしようではないか。
すなわち、いかなる状況であっても、誇らしげに苦しみ、誇らしげに死んでいこうではないか・・・

まもなくバラックに明かりが灯った。
目に涙を浮かべ、感謝を言うために近寄ってくる仲間たちの姿を、フランクルは見た。

 

- 斎藤啓一:「フランクルに学ぶ」(日本教文社)より

関連記事: