メルマガ、コラムからの転載です。


 

今日は少し、禅と占星術を絡めて、被害者にならない方法を述べてみたいと思います。

ひろさちやさんの話にこんなのがありました。

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ある仏教学者の話です。

夏休みの直前に、隣家が失火して、その仏教学者の家が火事で焼けてしまったそうです。
学者の家が焼かれるというのは悲惨です・・・それまでの研究成果や書類がすべて焼けてなくなってしまった。

その仏教学者は、最初は隣家が憎くてならなかった。
その隣家のせいで彼はたくさんの蔵書を失い、未発表の研究論文を灰にしたのだから、腹が立つのは当然です。

だが、自分は仏教学者である。
その仏教学者が人を憎むなんて、やはりおかしい。
それじゃあ、何のために仏教を勉強してきたかわからないのではないか。

学者は、「自分は隣家によって大事な蔵書や研究論文を“焼かれた”と考えていたが、それだから憎しみが消えないのだ」、と考えた。

そこで、その学者は、自分で“焼いた”のだと考えようとした。
でも、自分で焼いたわけでないものを、自分で焼いたことにするのは無理なことでした。

そのとき、その学者は気がついた。
「焼かれた」でもない、「焼いた」でもない・・・それは自分の主観・解釈にすぎない。ただ、あるがままに「焼けた」と思えばいいのだ、ということに。

そして、怒りが収まり、自然と火事のことをあきらめることができたといいます。

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感情というのはその人の「解釈」により生じます。
例えば・・・身内を他人に殺された場合は人は大きな怒り・憎しみにかられるでしょう。
しかし、自然災害で亡くなった場合は、地面や天候に対して怒ったり憎んだりする人はあまりいません。
その違いは「~された」という意識・解釈にあるのでしょう。

被害者意識がそうさせるのです。
「~された」という解釈が、あなたを被害者にし、怒りや悲しみをもたらすのです。

最近の記事で、あるマナー講師の方が、年賀状に「まだ、マナー講師をやっているの?」と書かれてあるのを見て、悲しくなったそうです。
その言葉の中に、「まだ、そんなことをやっているの?」という解釈をしたからです。
おそらく、年賀状出した人は近況を聞きたかっただけなのでしょう。
相手にそんな気は全くなくても、人は自分で作り出した解釈という幻影に怒ったり、悲しんだりするのです。

人は心、すなわち「解釈・幻想」という色眼鏡を通してこの世界を見ているのです。
禅では解釈や色眼鏡を嫌います。心の作用を落とし、ありのままで見ることを目指します。

 

でも、何かひどいことをされた時、この仏教学者のように解釈を落とすのはそう簡単ではないですね・・・

そこで、少し役に立つのが、占星術やカルマ思想です。

カルマ思想では、どんな原因も自分の行為にあると言います。
自分に何か悪いことをする人が出てきても、それは過去のカルマがさせたことです。
自分を傷つけた人は、カルマの運び屋にすぎません・・・真に自分を傷つけたのは、過去の自分です。
自分に真の原因があると分かれば、被害者意識を落とすことができます。
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上司に理不尽な批判をされた時・・・
友人に失礼なことをされた時・・・
配偶者にお金を盗まれたり、暴力を振るわれたとき・・・
知り合いからバカ呼ばわりされたとき・・・

そんな時は、カルマ則を思い出し、

「遠い過去の自分も、他人にそういうことをしていたのだな」
「目の前にいる人は、いつかの自分で、今、昔のカルマが返ってきているのだな」

と思ってみてください。

きっと、「~された」という解釈は消え、被害者意識が遠のき、怒りが消えていくことでしょう。

 

OSHOの言葉です。


 

大いなる感謝を持ってあなた自身を受け入れてごらん。

それが何であれ、そうでしかありえない。
だから、それと闘ったりしないように。

事実が心理的な苦痛を創りだすということはけっしてない。
あなたに痛みをもたらすのはあなたの解釈だ。
痛みはあなたが創り出したものだ、
なぜなら、それはあなたの解釈だからだ。

解釈を変えるとそのまさに同じ事実が喜びとなる。

全ての解釈を落としてごらん、
事実はただ事実であり、
それは痛みでも喜びでもない。

選ばないで、より好みをしないで。

ただ注意深くあり、
受け入れ
そして油断なくあれば、
あなたは秘密の鍵を手に入れる。
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- OSHO

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