【言葉】:カルマの法則ーサティヤ・サイババの言葉
愛の心を育みなさい。
誰も嫌ってはならない。
起こることは全て自分のためだと信じなさい。
いつであれ、どのような困難や苦しみが降りかかってこようとも、その原因は自分自身にあると考えなさい。
反対に、もしあなたが故意であれ無意識であれ誰かを侮辱したなら、他の誰かが、いつかあなたを罰するだろう。
喜びも苦しみも、あなた自身が作り出したものなのだ。
あなたが積んだ徳も、犯した罪も、影のようにあなたについてくる。
現代の多くの人が他人に説教をしながら、自分ではその教えを守っていない。
そのような教えに、どんな価値があるのだろう?
高尚な教えを読んだり聞いたりしても、それを熱心に実践しなければ、あなたにとって何の価値も無い。
少なくとも、小さな形で人類同胞を助けなさい。
最も助けを必要としているときに、あなたを助けるために、それは返ってくるだろう。
あなたが直面している困難のことで、他の人を決して責めてはならない。
絶対に誰かを虐げてはならない。
全てを愛しなさい。
全ての人を兄弟姉妹として扱いなさい。
-サティヤ・サイババ
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有難いお言葉です。(必ずしも容易ではありませんが)苦難こそ良薬と考えることで、平安に一歩近づくことができる気がします。Love All, Serve All.
コメント、ありがとうございます。
苦しみが成長や気づきをもたらすならば・・・
今生で少しぐらい悪いことをして、来世で苦しんだ方が、早いこと解脱できるんでしょうかね?^^
もし、完全無欠の正しき人生を送ったら、来世は幸福だらけちゅうことになり、そんな満ち足りた人生なぞ、なんの成長ももたらさないちゅうことにならんですかね?
歎異抄の「善人をもって往生をとぐ。いわんや悪人をや」ってそういうこと?^^
いや、やっぱ違うな・・・^^
歎異抄の「いわんや悪人をや」というのは、私が西本願寺親鸞系の高校の宗教の時間に習ったところに依ると、善人は自分で善を為し善徳を積むことにより半分は自力で、後半分は阿弥陀仏の他力(極楽に生まれることを願い一心に阿弥陀の御名を唱える者は極楽に救い上げるという仏の誓い)により極楽に生まれることが出来る。悪人は善なる徳を積んでないから阿弥陀仏のその誓願に100%すがるしかない。詰まり仏に全託するのだから、其処に自分が何とかしようという「我」がない。だから、半分しか仏を頼らず自分で何とかしようとする「我」が存在する善人が往生するのだから、全託の悪人が往生するのは言うまでもないーと言うことらしいです。
でも、ここで問題なのは全託の中身ではないでしょうか?全託とは、全て仏にお任せすることですが、それは、仏の説く教えの通りの行いをするということでもあるでしょう。それが出来たら、慈悲の仏そのものになるということでしょう⁉往生しない筈はないでしょうね。逆に言えば、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでは悪人と言えども往生出来ないと言うことではないでしょうか?
サイババが混沌とした今の時代に救われる方法は神の御名を唱えるだけで良いと言われているのと同じですね❗南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無・・・皆、同じですね。でも、本当はどの神の御名を唱えても自分が神の愛や仏の慈悲を示せるように努力しない限り、あらゆる執着を無くし内なる神性や佛性を輝かさない限り極楽往生は難しいのではないかと思います。
ふむふむ、なるほど
神や仏の御名を唱えるだけで、成仏・極楽往生・悟りの世界に入れるのか?・・・難しいですね。今の私には分かりません。
ターラムさんの仰るように、慈悲や無執着、仏性の顕現などの他の事が必要なのかもしれませんが、神や仏の御名を唱えていると、結果的に慈悲を示すようになり、執着が消え、仏性が輝くことになるのかもしれません。その場合は、結局、神や仏の御名を唱えるだけでいいということになるかもしれません。
また、「いわんや悪人をや」には、いろんな解釈があるようです。
悪人とは、自分ほど罪深い者はいないので、彼岸に到達するためには仏様におすがりする以外に道はない、と思いこんでいる人のことで、
反対に善人とは、自分程善い人間はいない、自分はこんなにも善根を積んでいるのだから、必ず成仏できると信じている人、言い換える と自力で仏になれると思っている人のことを、親鸞上人は善人と言った、という解説もあります。
善人とは、ある意味、傲慢で何ら反省の気持をもたない人ということになります。
まぁ、それは結局、悪人と思いますが・・・^^;