人は人生という荒波に対し、悩み、策を弄し、自分の力で何とか解決しようとします。

しかし、人間ができることなんて、たかが知れています・・・人がどんなに考えたり、策を弄しても、必ず自分の予測を上回ることが起きてきます。

人の判断や力というものが、不確かでちっぽけなものと悟った時、人は大いなるものに委ねようとします・・・

 

というわけで、今回は「全託」についてです・・・「明け渡し」とか「すべてを委ねること」などとも言われます。仏教的に言うと他力本願の思想に似ています。

私の知る限り、最も強力な開運法です。

開運法といっても、自分の特定の欲求を満たそうという目的で行っても、おそらく失敗するでしょう。

と言うより、個人的な欲を取り去り、神に全ての結果をお任せすることが全託ですので、欲を叶えようとすることとは全く逆になります・・・自分の欲求を持つ限り、明け渡すことなんかできません。

また、自分の期待とは違う結果になったとしても、それを神の御心として、喜んですべてを受け入れねばなりません・・・結果をすべて、神に捧げるのが全託です。

そういう意味では、開運法ではないのかもしれません。

『自分の全てを投げ出す勇気があるものが、すべてを得ることができる』という格言があります。

幸不幸を含めた自分のすべてを捧げるという思いに至ったときに、結果的に、すべてが良くなるという、言わば、捨てることが、得ることになるという矛盾した結果になります。

『お任せするだけだから、楽な道だろう』と思うかもしれません・・・しかしながら、私は何年か前からこの全託の道を歩もうとしてきましたが、これには、大変な勇気、または信頼が必要です。

どのくらいの信頼か?・・・神様から「崖から飛び降りろ」と言われたら、その言葉を信頼して飛び降りることができるぐらいの信頼と勇気ですね^^

ただ、この全託の道は私には合っていると感じています。

幸福を願う人が「幸不幸、どっちでもいい。すべてを神様にお任せする」と思うことは困難かもしれません。

私は、自分の不幸を願っていたので、「幸不幸、どっちでもいい。神様にお任せする」と思うことは楽な道でした。

 

個人的な見解ですが、全託するには、以下の三つの確信が必要です。

 

1.神が全能、または自分より最善の道を知っていると信じる

神が全能、または最善なことを知っていると信じてなければ、人は自分の意志にかじりつくでしょう。自分の方が正しいと思っていたら、とても身を任せることなんてできないでしょう。
神は自分より偉大である、または自分より最善を知っていると認めたとき、初めて、神に委ねる気になるでしょう。

 

2.自分のそばにいて、いつも自分を導いてくれていると信じる

神が最善と信じていても、神が自分のことを気にかけていてくれるのか、心配になるでしょう。
「こんな私は神からの助け・恩寵を受けるような存在なのだろうか?」と・・・神の能力を疑わなくても、それを受ける資格が自分にあるのか、その能力を神が自分に行使してくれるのか、神の意図・愛を疑うわけですね。でも、疑っている限り、とても自分を委ねるということは怖くてできません。

以外にみんなここで引っ掛かります・・・長年、神を信じている人でも、このことについては結構半信半疑な人が多いです。
1の神を力・全能を信じることは比較的容易ですが、2に至るのに、かなりの時間がかかる気がします。

神の愛を信じ、祈りを繰り返すことにより、日々の生活の中に神を実感し、神が常に自分を導いていてくれることを確信するようになるでしょう。

 

3.苦しみも楽しみも、悲しみも喜びも、すべて、自分のために神からもたらされたもの、必要なものと信じる

せっかく神を信じるようになっても、この知識がないと、苦しみや悲しみがやってきた時に、「なぜこんなことが起こるのか?」「神は助けてくれないのか?」「神はいないのか?」と思うようになります。神への疑念と失望が生まれ、神を信じなくなるか、憎むようになるでしょう。

しかし、全てが神からの贈り物であると知った時、苦しみすら感謝に変わります。何も怖いものはなくなります。運命のすべてを受け入れるようになります。

 

1~3の確信、すなわち、神が全能であり、自分を導いてくれていて、必要なものをすべてもたらしてくれると知った時、その時、神への愛と欲求の放棄が起こり、すべてを神に捧げる全託の心を得ることができます。

私はまだ全託というところまでいきませんが、半分ぐらいは神に委ねることができた気がします。

「人生の最良の航海術はオールを手放すことである」と言った人がいましたが、少しだけ、それを実感しています。

 

全託・明け渡しというものがどんなものなのか、聖者の言葉を以下に示しておきます。

 

〔全託と祈りについての聖者の言葉〕


 

なぜ心を騒がすのか?

あなたの全ての問題を私に解決させなさい。

それらの問題について考えるのは、この私である。

私が待っているのはひとえに、あなたが私に全託することだけだ。

そのようにすれば、今後あなたは、どのようなことに関しても全く心配する必要はなくなる。

別れを告げなさい、あなたの一切の恐れや落胆に。

全託とは、あなたの思いを問題から引き離すことだ。

困難や悩みから、思いを引き離すことである。

あらゆることを私の手に委ねて言いなさい。

『主よ、あなたの御心が行われますように』、と。 

それは、

『神様、あなたが全てを御手にお引き取り下さって、私にとって一番良いように解決して下さることに感謝します』と祈ることである。

 

結果について考えることは、全託の反対であることを覚えておきなさい。

つまり何らかの状況が、あなたの望む結果になっていないと言って心配するのは、あなたに対する私の愛を、あなたが信じていない証拠なのだ。

 

『これはどうなってしまうのだろうか? ……何が起きるのだろうか?』などと、決して考えてはならない。

 

あなたは私に、それを処理してほしいと望むのか?

イエスか? ノーか?

イエスであれば、あなたはそれについて心配するのをやめなければならない。

たとえ私が、あなたの期待とは違う道にあなたを導かなければならなかったとしても、私があなたを両腕に抱えているということを覚えておきなさい。

 

あなたを深刻に悩ませるものは、あなたの理性的思考であり、あなたの不安であり、あなたの強迫観念であり、いかなる代償を払ってでも自分のことは自分でしようとするあなたの意志である。

そのように悩むことはない。

 

悩む代わりに、たとえ悲しい状況の中でもこう祈りなさい。 

 

『神様、この問題を、この困窮をお与え下さったあなたを讃えます。

どうかこの束の間の一生を、御心のままにお計らい下さい。

あなたは私にとって何が最善かを非常によく御存知です』。

 

災難が減るどころか、増えるばかりだと感じることもあるだろう。

動揺してはならない。

眼を閉じて、信ずる心で私に言いなさい。

 

『あなたの御心が行われますように。 

その問題は、どうぞあなたがお考え下さい』。

 

そうすれば、必要とあらば、奇跡すら起こす。

 

私はいつもあなたを思っているが、

あなたが完全に私に頼り切る時にしか、私はあなたを完全に助けることはできない」

 

          サティヤ サイババ(※プラシャンティ・ニラヤムのウエスタン キャンティーンのボードにある御言葉)

 


 

この世、または来世における報いを期待しつつ神を愛するのはよろしい。

しかし、更に良いのは、愛のために神を愛し、こう祈ることだ。

 

『主よ、私は富も、子供たちも、学問も欲しいとは思いません。

もしそれがあなたの思し召しなら、何回でも生まれ変わりましょう。

 

ただ、このことはお許しください。

報いへの期待無しに、あなたを愛することができますように。

無私の心で、

愛のために愛することができますように』 と。

 

 -中略-

 

彼は愛されるべき唯一の対象である。

私は生来、彼を愛する。

それだから愛するのだ。

 

私は何もお祈りはしない。

私は何ひとつお願いはしない。

彼はお好きなところに私を置いてくださるがよい。

 

私は愛のために彼を愛さなければならない。

私は愛で商売をすることはできないのだ。

 

ヴィヴェーカーナンダ

 


 

プラフラーダは、『(バーガヴァタ)プラーナ』の中で讃えられている聖者の一人である。

彼は少年時代から、主ヴィシュヌ(ナーラーヤナ神)ヘの熱烈な信仰を持っていた。

彼の悪魔のような父親は、あらんかぎりの手段で息子を世俗の道に引きもどそうとした。

しかし、この若者は全ての残酷な試練に勇敢に立ち向かい、忘我の境地で主を讃え続けた。

 

主が彼の前に現れ、『何が欲しいか?』と尋ねられたとき、彼は次のように言った。

『無知な人々が世間の物に対して抱く愛と同じ程強い愛で、あなたを想うことができますように。

またその愛が決して、私のハートから去りませんように』と。

 

もしお前が神への無私の愛を行じることができたら、たいそう良かろう。

そういう愛をもつ人は、

 

『おお主よ、私は救いも、名誉も、富も、病気の治ることも求めません。

そんなものは一つも欲しくはありません。

私はあなただけが欲しゅうございます』 と言うのだ。

 

金持ちのところへ、様々の願望を心に抱きながらやってくる人はたくさんいる。

しかし、もし誰かが、ただ彼を愛するがゆえに、何の下心もなしにやってくるなら、その金持ちは彼に強く惹かれるだろう。

 

プラフラーダはこの無私の愛、

いささかの世俗的な目的ももたぬ神への、この純粋な愛をもっていた。

 

聖ラーマクリシュナ

 


 

「いつでも、神にすべてを捧げ、すべてを神に委ねたら、問題や疫病は、神聖なる化身のもとに去るだろう。

例え、彼らが私にそれらの苦難をとりのぞいてくれと尋ねなくても、苦難は私の所へと来るだろう。

人々は、この原理を磁力と比べる事が出来る。

磁石が欲しても、欲しなくても、鉄は自動的に磁石の周りにくっついてくる。」

―バーラ・サイババ

 


 

正当なことだ。

あなたが高き力と異なると感じる限り、それに祈りなさい。

あなたが、あなたの上に重荷があると感じる限り、それに関して祈りなさい。

 

しかし、更に良いのはプラパッティ、

自らの委ねの境地(全託、明け渡し、お任せ)を得なさい。

そして、あなたの全ての重荷を主に委ねなさい。

その時、彼はあなたの背中から重荷を取り去り、

あなたが彼の内にあり、

彼と一体であるという実感をあなたに与える。

 

もし明け渡したのなら神の御心に従い、

あなたの気に入らない事が起こったとしても不平不満なく受け入れなければならない。

今、一見そう起こっているように見えることも、後に全く違った結果になるかもしれない。

不幸はしばしば、人々を神への信仰へと導く。

あなたは神だけを信じなければならない。

 

この世界を統治する『一者』がいる。

世界の面倒を見るのは彼の仕事である。

この世界に生命を与えた彼は、それをどのように世話をするべきかということも知っている。

この世界という重荷は彼が背負っているのであって、あなたではない。

 

神である真我に自分自身を委ねきった人が最も優れた帰依者である。

自分自身を神に委ねるとは、

真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、

ひたすら真我の内に留まっていることである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

 

神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、

なぜ我々はその力に身を任せず、何をどうするべきか、どうすべきでないかと思い悩むのだろうか?

 

神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心に従い全てを明け渡しなさい。

神の計らいに任せなさい。

もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令である。

神をあなたに従わせておきながら、『自分は明け渡した』と考えることはできない。

 

神は何が最善であり、いつ、どのようにするべきかを知っている。

彼に全てを完全に任せなさい。

重荷は彼のものだ。

あなたはもはや、何の心配もしなくていい。

あなたの心配はみな彼のものなのである。

明け渡しとはそのようなものだ。

これがバクティ(神への愛)である」

 

もしも明け渡しが不可能なら、何ができるというのだろう? 

それでは心の平和はない。

あなたに平和をもたらすことはできない。

ただ明け渡しによってのみ、それができるのである」

 

-ラマナ・マハルシ

 


 

人々が神に祈るとき、

時々、神が応えてくれるかどうかとか、

どうやって応えるのだろう?といった疑念が

生じるかもしれません。

 

そのような疑念は、ラーダでさえも生じました。

しかし、全宇宙が神の館であり、どのドアも閉めたり開けたりする

必要はないことに気づいたとき、すべての疑念は消え去りました。

必要なもののすべては、神への完全なる全託です。

 

-サティヤ・サイババ

 


 

質問者「 私は私の自ら(真我)を実現するにはあまりに弱すぎます」

 

ラマナ マハルシ「それなら、あなた自身を無条件で委ねなさい。

そうすれば、高き力が自らを啓示する」

 

質問者「無条件の委ね(全託、明け渡し、お任せ)とは何ですか?」

 

マハルシ「人が自分自身を委ねるなら、質問を尋ねる、もしくは、考えに入れられるべき人は存在しない。

『私』という根本の思いにつかまることによって思いが排除されるか、

高き力に自分自身を無条件に委ねるか。

実現には、その二つの道しか無い。

人が自分自身を委ねるなら、それで十分だ。

全託とは、自らの存在の根源の原因へ身を委ねることである。

そのような源があなたの外側の何らかの神であると想像することで、思い違いをしてはならない。

自らの源は、自分自身の内にある。

それに身を委ねなさい。

あなたが、あなた自身がそれの外にいると想像するため、あなたは『どこにその源があるのか?』という質問を提起する。

砂糖はそれ自体の甘さを味わえず、味わう人がそれを味わい、楽しまねばならないということを主張する人もいる。

同様に、『個人は至高者になりえず、その境地の至福を享受することはできない。それゆえ、喜びが生じるためには、一方では個人性が、他方では神性が保持されねばならない!』と。

神は砂糖のように意識が無いのだろうか?

いったいどのようにして、自分自身を委ね、それでもなお至高の喜びのために個人性を保つことなどできるのだろうか?

更に、彼らはまた、人は神の領域に達し、そこに留まり、至高の存在に奉仕すると言う。

『奉仕』という言葉の響きは、神を欺けるのか?

『彼』は知ってはいないだろうか?

『彼』はそれらの人々の奉仕を待っているのか?

『彼』-純粋な意識-は代わりに尋ねはしないか?

『大胆にも私に奉仕すると言う、私から離れたあなたとは誰か?』

人が原初の根源から離れているということ、それ自体が自惚れである。

崇拝には、少量の樟脳で十分だ。

これが行われないのに、人々は神から不釣り合いな賜物を期待する。

自分たちが神に多くを与えたという思いを抱き、反り返って歩く人もいる。

彼らが与える彼らのものとは、実際、何かね?

神が有するものの内の少しが返還された。それだけのことだ。

思いの無いままにいることが、

人が神に捧げることができる最良の供物なのだ。」

 


 

バーラ・サイババはかつて、献身的な人達に、絶対的な献身、信頼、信用、
そして神に身を委ねる例えとして、こんな話をした。

 

「かつて裕福な人が汽車で旅行をしていて、同じ客室で反対側に座っていた知らない人がおり、その人は聖人であった。

裕福な人は、聖人を一貫して嫌悪感と侮蔑の眼差しで、見ていた。

昼食の時間になり、裕福な人は、食事を運ぶために部屋の角に控えていた召使に合図をした。

食事をしている間に、裕福な人は突然、聖人に向かって怒鳴り、叱り始めた。

 

「おまえは、どうしようもない物乞いで、怠け者で、そこら辺をうろうろしているだけだ。

お前は、神の時間を無駄にしているだけで、誰の役にも立ってはいない。

お前は、誰かが食事を与えてくれて、助けてくれるのをまっているのだろう。

お前が人から尊敬されるためには、一生懸命働いて、稼ぐことだけだ。

私は一生懸命働いて、私の道を築いてきた。

そして私の努力が実り、とても裕福になり、

欲しいものはすべて手に入れることが出来る。

お前は、私の高価な食事を見ていればいい、

しかし、私がお前に施してやるなどと、決して思うなよ、

ただお前はどこからお前の昼食を持ってくるのか、見ていろ」

 

静かな、情愛を持った声で、聖人は話し始めた。

「もし、私はあなたから施してもらおうとは思っていませんので、どうぞ怒鳴らないで下さい。

もし私が知らぬ間に、あなたを怒らせているのでしたら、謝罪いたします。

それは私の意志ではありませんし、神はいつでも、どこでも、私に必要な物を与えてくださるのです。

ですから、私があなたに何かをお願いするなどと、どうぞ思わないで下さい」

 

「そうだ、そうだ、すべてのものは天から自ずと降ってくる」

と裕福な人は、嘲笑しました。

「笑わせないでくれよ、一生懸命働くことが私のモットーで、何も天から降ってはこないよ。」

 

聖人は静かに床を見つめて、何も言いませんでした。

 

汽車が次の駅まであと半分というところで、ガードが急いで廊下を通過し、次の停車駅まであと半分の距離です、と言った。

静かに、穏やかに、聖人は立ち上がり、汽車を離れて、外に水を飲みに行きました。

裕福な人は、汽車の窓から聖人の様子を見ていると、別の人が聖人に近づき、大きな食料の入った箱を持ちながら、

「Swami、Swami、私の主人がこの食事をあなたに届けるようにと、私を送り出しました」。

 

どうにかして、聖人はその男が持ってきた箱を受け取った時には、その男は視界から姿を消していました。

裕福な人は、その光景を驚きをもって、見つめていました。

そして裕福な人は、聖人が地面に座り、神からのお恵みの食事の箱を開けて、神へ感謝の気持ちを伝えました。

そして聖人は、おなかのすいた物乞いを呼び、わずかな量の食事を自分にとってから、残りをすべて物乞い達に施しました。

裕福な人は、妬ましげな驚きと共に、聖人の食事は自分の食事よりもよっぽど高価なことに気づきました。

聖人が客室に帰ってきた時に、聖人は裕福な人にやさしい眼差しで、こう言いました。

 

「どうでしょう、神は私に豊富な食事を与えてくださいました。

あなたはこの世界のただの紳士です、しかし神は、この宇宙の統治者なのです。

私は神の為のみに生きており、神を信じ、神を愛しています。

だから、神は私の世話をして下さり、決して私を独りにしません。

神は、私が必要なものを、必要な時に、与えてくださるのです。

私は、私の人生を神に委ねており、神のためにすべてを捧げています」。

 

―バーラ・サイババ

 


 

神に関わることには

「不可能」という言葉は存在しません。

神は何でも成就することができます。

あなたが神に完全に全託するなら、

神はあなたの行為の結果を取り消して

あなたに恩寵を注ぐことができます。

自分はカルマ パラに縛られていると考えて

憂鬱になったり落胆したりする必要はありません。

もし、あなたの祈りが真摯なものであれば、

神はあなたのカルマ パラを取り消すことができます。

 

- サティヤ  サイババ

 


 

バクティ(神への愛)は、何か欲望を叶えるためには利用され得ない。

それ自体が、一切の欲望を抑制する。

 

ナーラダは、愛の印としてこれらを説く。

全ての思考、全ての言葉、全ての行為を主に明け渡すならば、

神を少しでも忘れていることに人は強烈な悲しみを覚え、

そこで愛が生じる。

 

社会と聖典の習慣を超越した人、それがサンニャーシンである。

魂全体を神に向けているならば、

神だけに帰依しているならば、

我々はこの愛を今にも得ようとしていると知るのだ。

 

全ての『私』と『私のもの』を放棄しなさい。

宇宙に何も持たない者のところに、主は来られる。

全ての世俗的な愛着の束縛を断ちなさい。

怠惰を超えて行け。

 

決して自分の為したことを見ようと振り返ってはならない。

全てを主に明け渡し、それについては考えてはならない。

魂全体が、神への不断の流れに流れ込み、

金や評判、名声を探し求める暇はなくなり、

神以外のことは何も思わない。

そして魂全体が無限の素晴らしき愛の至福に入る。

神への愛は一瞬一瞬増大し、常に新しい。

それは感じることによってのみ、知ることができる。

愛は全ての中で最も容易いものである。

それは論理性を必要とせず、生来的なものなのだ。

 

ヴィヴェーカーナンダ

 


 

帰依者たちは、とても遠くからやって来る。彼らは、一人一部屋、一人で一つのバスルームを使うことを習慣としている。しかしここではあらゆる類の不便に耐えている。

私が彼らに『何が欲しい?』と尋ねると、彼らは明るく答える。『ただ、あなたのダルシャン(謁見)です、スワミ!』

彼らはただスワミを求めてあらゆる障害に耐える。

スワミが一言『How are you?』と尋ねるだけで、彼らは大きな喜びを得て満足する。

 

ある帰依者の妻が最近具合を悪くした。

スワミはその帰依者に『何が欲しい?』と 尋ねた。

彼は『スワミ、あなたのお言葉だけです』と言った。

彼は妻の病気のことは何一つ言わなかった。

なぜなら、彼は私が妻の面倒を見ることを確信していたからだ。

その夜、妻が回復した時、私は彼に、あなたの確信こそが彼女を治したのだ、と言った。

 

-サティヤ・サイババ

 


 

学生たちはスワミ(サティヤ サイババ)への愛でいっぱいだ。

学生たちはスワミを自分の母であり、父であり、

全てであると思っている。

 

学生たちは私に、『サイ マータ』(サイお母さん)と言って呼びかける。

そして、『私たちはサイ マータの子供たちです』と歌う。

彼らが私を母だと思っているのに、

私がその祈りに応えずにいることなどできるだろうか?

ゆえに、私も彼らに母の愛を注ぐのだ。

 

神は、決して信者を忘れることができないし、忘れない。

神は、決してあなたから離れることはない。

 

神は常にあなたと共にいて、

あなたの面倒を見ながら、

あなたが神の方を向くのを待っている。

 

疑惑や失望によって、どれほどグロテスクで、どれほど荒廃していても、

あなたの精神の奥深くにあるものを私のもとへともって来なさい。

私はあなたを拒まない。

私はあなたの母親である。

 

サティヤ サイババ

 


 

神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、

なぜ我々はその力に身を任せず、何をどうするべきか、どうすべきでないかと思い悩むのだろうか?

我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。

列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう?

荷物を下ろして安心しなさい

 

完全な明け渡しとは、『私』という想念が消え去った状態だ。

生来の精神的傾向は全て洗い流され、あなたは自由になる。

 

「もし、そのように苦しみの無いままに在るなら、どこにも苦しみは存在しない。

今の問題は、あなたが世界をあなた自身の外側に見て、

その中に苦しみがあると考えるためである。

世界と苦しみは共にあなたの内にある。

あなたが内に向かうなら、苦しみは存在しない。

 

内に向き、自らを探求しなさい。

そうすれば、世界とその苦しみは共に終わる。

身体の意識が去る時、苦しみも去る。

 

-ラマナ マハルシ

 


 

神自身が自分のグル(霊性の師)であるなら、何も心配する必要はない。

我が子を愛する母親が子供の世話をするのと同じで、

神を完全に信じて、人生を全託していれば、

神はその信者の世話をする。

一切、何も心配しなくてよい。

実に、グルは神しかいない

 

神以外の人に委ねてはならない。

人は平等である。

 

それゆえ、人には、委ねられる権利もなければ、

誰か別の人に委ねる権利もない。

主人はただ一人である。

ただ一人の主人がいるだけである。

 

ただ一人の主人、それは神である。

信者が神にその人生を委ね、従うならば、

神は彼の人生の最も細部に渡るまで面倒を見、責任を負う。

 

サティヤ サイババ

 


 

神に任せなさい。

もし、あなたが自分を投げ出せば、

あなたは彼の意志に従うことができるに違いない。

そして、あなたが望むように事が運ばなくても悲しむことはない。

物事はそれが現われてきたのとは異なった結果になってゆくだろう。

災難はしばしば、人々を神への信仰へと導く

 

-ラマナ マハルシ

 


 

あなたは20年以上もプラシャーンティニラヤムに住んでいるかもしれないが、

もし身体的欲求ばかりを気にしているなら、あなたの霊的努力の全ては全くの無駄であり、

あなたは何の進歩もしなかったということだ。

 

バジャンの終わりに、樟脳(しょうのう)の炎を揺らす(アーラティ)のは、

ただ、あなたの感覚的(官能的)欲望を、

何の痕跡も残さずに完全に燃やし尽くさなければならないこと、

あなたが神と神の栄光の中に溶け入るためには、

あなた自身を神に捧げなければならないということを、

思い起こさせるためだけに為されるのだ。

 

サティヤ・サイババ

 

 


「象王ガジェンドラは、ワニに咬みつかれて川から上がることができなかった。

ガジェンドラは力の限り戦い奮闘したがワニの口から逃れられず、しまいには精も根も尽き果ててしまった。

ガジェンドラは熱い祈りを込めて叫んだ。

 

『ああ、神様!

あなただけが頼りです。

あなただけが私の救済者です。

私は他の誰も知りません。

この抜け出しがたい窮地から私を救えるのは、あなただけです。

この期に及んで、他の誰が私を救いに来ることができるでしょう?

 

ああ、神様!

私を救いたまえ、救いたまえ、救いたまえ!』

 

その時、ガジェンドラはワニの口から救われた。

 

あなたはこの物語全体の内的な意味を知るべきだ。

川はあなたの人生、ワニは欲望と感覚にふけることを象徴している。

ガジェンドラはジーヴァ(個我、個別の魂)である。

ガジェンドラは初め、鼻でしっかりと木を掴んで神に祈った。

神は応じなかった。

ガジェンドラが力をゆるめて、鼻を上に向け、助けを求めて一心に神に祈った時、神はガジェンドラを救った。

 

あなたはこのエピソードを、絶対的なバクティ(神への愛)、すなわち全託(明け渡し、お任せ)の一例と見なすべきである。

神、マハーヴィシュヌは、スダルシャナと呼ばれる円盤を投げてワニを殺し、ガジェンドラを救った。

『ス』は善、『ダルシャナ』は恩寵(慈悲)を意味する。

このように、あなたを救うのは、あなたの強さでも力でも、財産などでもなく、

神の恩寵である。

神は、あなたが絶対的に全託する場合にのみ反応する。

 

ドラウパディが辱しめられ、宮殿でサリーを剥ぎ取られようとしていた時の状況も同様である。

ドラウパディは片手でサリーをしっかりと押さえながら、慎ましさを守ろうとして神に祈った。

神は応えなかった。

それから、両手を合わせてナマスカールしたときに初めて、クリシュナはドラウパディを救った

 

サティヤ・サイババ

 

ドラウパディ

→ユディシティラ(ダルマラジャ)、アルジュナらパーンダヴァ5兄弟の共通の妻。

ある時、ドラウパディはパーンダヴァに敵意を抱くカウラヴァの手によって髪を掴まれて賭博場に連れてこられ、公衆の面前でサリーを剥がされそうになる。

ドラウパディが主クリシュナに救いを求めて祈ると、クリシュナ神の奇跡により、サリーは無限に長さを保って彼女を守り、敵は神の力の前に降伏した。

 


 

質問者「ドラウパディのサリーが無限の長さになったことを、どうすれば合理的に説明できますか?」

 

ラマナ マハルシ「霊的問題は合理主義に適さない。

霊性は超越的なものである。

奇跡は、ドラウパディが自分自身を明け渡した後に起こった。

それゆえ、秘密は明け渡し(全託、お任せ)にあるのだ。

 


 

引用:https://blogs.yahoo.co.jp/happyhappysai2010 等

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