【言葉】:『行為とカルマ』:ラマナ・マハリシの言葉
質問者「(行為するのは私ではなく神であるという)そのような考えは心を空白状態にしてしまい、仕事が進まなくなってしまいます」
ラマナ マハルシ「まず、その空白状態に達しなさい。
その後で、私にそう言えるかどうか見てみなさい」
「『(バガヴァッド)ギーター』は何と述べているかね?
アルジュナは戦うのを拒んだ。
(神の化身)クリシュナはこう語った。
『戦いを拒否する限り、あなたは行為者という感覚を持っているのだ。
行為する者、あるいは拒否する者とは誰か?
行為者(カルタ)という感覚を手放しなさい。
その感覚が消え去らない限り、あなたは行為に束縛されることになる。
あなたは高次の力に操られているのだ。
その力に従うのを拒否することは、行為に束縛されているのを認めることになる。
それよりも、その力を認めて、自分自身を道具として差し出しなさい。
別の言い方をすれば、もし拒めば、あなたは強制的にそれをさせられることになるだろう。
不本意に行為するよりも、進んで行為する人になりなさい。
真我に心を留め、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。
そうすれば、行為(カルマ)の結果があなたに影響することはないだろう。
それが雄々しさであり、英雄というものだ』
真我の内に在ることが、『ギーター』の教えの大要であり、精髄なのだ。
真我の内に確立されれば、このような疑問は起こらない。
疑問が起こるのは、確立されるまでのことだ」
「あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。
それゆえ、カルマの根元を見出し、それを断ち切りなさい。
真我(アートマン)を実現するまでは、作用と反作用であるカルマは存在するだろう。
実現後には、カルマも世界もないだろう。
自分を身体と同一化する限り、あなたは行為の結果に影響されるだろう。
つまり身体と同一化している限り、あなたは善と悪のカルマを積んでいるのである。
『私がこれをしている』という感覚がある限り、人は良いものでも悪いものでも行為の結果を経験しなければならない。
どうしてひとつの行為で別の行為を拭い去ることが可能であろうか?
『私がこれをしている』という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を与えるものはない。
真我が実現されない限り、『私がこれをしている』という感覚がなくなることはないだろう。
現世で体験されることが、プラーラブダ(現世で清算されなければならない前世からのカルマ)によってすでに決定されていることを知っている人は、何を体験しようと決して戸惑わない。
全ての体験は、それを望もうと望むまいと避けることのできないものだと知りなさい」
「行為者(カルタ)としてあるかぎり、行為(カルマ)の報いを受けることは免れない。
だが、『行為者とは誰か?』と探究して真我(アートマン)を実現すれば、
行為者という観念は消え去り、三つのカルマは終焉する。
これが永遠の解脱の境地である」
https://jyotiatmananda.fc2.net/blog-entry-3146.html
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ジョーティさんのとこ 毎朝見てます
日常のひとコマも面白くていいですね
ちなみに自分は昨日こちらを見てました
http://arunachala-saint.blogspot.com/
バガヴァーン: ええ、あらゆることがあらかじめ決定されています。
私: では、人はどのような責任、どのような自由意思を持つのですか。
バガヴァーン: では、何のために体は存在するようになりますか。
それはこの人生で遂行するよう運命づけられた様々な物事を行うために用意されています。
全てのプログラムが計画されています。「タミル語(わずかなものも彼の意思以外によって動かない)」は、
あなたが「タミル語(彼の意思以外によって動かない)」や「タミル語(カルマ以外によって動かない)」
と言おうとも、同じ真理を表します。人間にとっての自由に関して言えば、彼は彼自身を体と同一視しない、
体の活動の結果起こる楽しみや苦しみによって影響されないことが自由にできます。
みけねこさん
マハリシのリンク、ありがとうございますm(__)m
一通り読ませていただきました。
涙が出るほど素晴らしい言葉でした。
特に
『我々は世界で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な事実です。それは彼にとってとても現実的です。私たちはそれを夢と呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。』
という問いかけが、とても深遠な質問で、それに対するマハリシの回答も素晴らしかったです。
ありがとうございましたm(__)m
人間には潜在意識と顕在意識があると言われています。顕在意識で、自分が決めて判断している、と思う出来事も、自分がそう思い込んでいるだけで、それ以前に、潜在意識で、瞬時に決定されるそうです。
~行為者の履歴書~
①おぎゃーと生まれる時に、世界が現れます。
→世界=真我=実相=ほんとの自己
②その頃は、内と外の境界もなく、私(偽我、行為者)もいません。
③体を動かし、知覚を得るうちに、脳によって、ここからここまでが私、という身体的自己感覚が出来てきます。
④日々、これが親だよ、おじいいちゃんだよ、と、外の概念を、周りから教え込まれます。
⑤外の世界を受け入れることによって、自分の中に、内と外という2元の世界が現れます。
⑥この辺り(3歳くらい)から、自我が芽生え、私(偽我、行為者)が現れます。
⑦自己主張もはっきりしていて、私と私でないものの2元世界の中で生きるようになり、現在に至ります。
行為者以前に、ただの一者によって、行為は決定されているのは、本当なのでしょうかね・・・。
そうであれば、行為者は、ただのファントムであって、実在しません。
実相世界は、何の意味もなく、無であり、空であり、ずっと今ここにある。
意味のない世界に、行為者が上書き保存するように、世界に意味を与え、ないものがあるかのように見えているのが、
この世界であり、人生なのだと思います。
でも、これらは、言葉や概念では、決して理解しえない世界だそうです。
なんとも捉えないようのない話というか、こんなことを知って何になるの?と思えるような話ですね。
茶太郎さん
コメント、ありがとうございます。
なかなか考えさせられました(^^;
>行為者以前に、ただの一者によって、行為は決定されているのは、本当なのでしょうかね・・・。
もしそれが本当だとするなら、少し疑問に思うのですが・・・
仮に悪事をなすことがあらかじめ決定されていて、実際に悪事をなすのだったら、本当は誰が悪いのでしょう?
本人の意思と思ってしたことも、実際は神が行為者だったら、悪事をなしたのは神でしょうか?
本人はただ動かされただけ・・・
カルマの法則では、悪事をすると苦しむことになるのですが、悪事をしたのが神なら、なんでその人が苦しむことになるのでしょうか?
そもそも、悪いことをする人も、多くは、小さい頃からの環境によって作られます。
すさんだ環境、愛情のない家庭、いじめや悪い友人、TVやゲームの悪影響、人から疎まれ愛されもせず・・・
まさに、本人の意思など関係なく、悪事をする人間になることが仕組まれたようです。
悪いことをするように作られた者が悪いことをしたとして、それはだれの責任でしょうか?
それは責められるものなのでしょうか?
悪になることが決まっていて、それでカルマの結果、苦しむのなら、それは不公平ではないでしょうか?
私にはよく分かりません(^^;
>そうであれば、行為者は、ただのファントムであって、実在しません。
きっと、仰る通りなんでしょうね・・・
真実から見れば、他者すらいないのでしょう・・・この世は神様一人で行う「ままごと遊び」ですね。
自分(神)であることを忘れて、一人の神がそれぞれの役を演じているのでしょう。
>実相世界は、何の意味もなく、無であり、空であり、ずっと今ここにある。
>意味のない世界に、行為者が上書き保存するように、世界に意味を与え、ないものがあるかのように見えているのが、
>この世界であり、人生なのだと思います。
なるほど・・・
皆、それぞれの心と思いで、世界に色眼鏡をつけて見てるのでしょうね。
本当は何の意味もなく、世界はただあるがままにあるだけなのでしょう。
>なんとも捉えないようのない話というか、こんなことを知って何になるの?と思えるような話ですね。
本当の行為者が神ということを信じるなら、進んで自らを差し出す感覚が生まれるのだと思います。
最近、自分の意思を捨てて、自分はクリシュナの吹く笛のようになりたいと思えるようになりました。
なんの希望もなく、中はからっぽで、ただ神の命ずるままに奏でる・・・
結婚やモーダカ屋も自分の意志というより、周りからの助言や要請で、自然とそうなってしまった感じです。
私は動かされている・・・少しだけそう思えるようになりました。
主体性がないと言えばそうなのかもしれませんが・・・^^;
べこさん
占い師が言うのもなんですが、占いというのは、ほとんど意味がないです。
(ほとんど)運命を変える力はありません・・・
せいぜいが、気持ちの整理・心構え程度です。
皆、なぜ占いを受けるのでしょう?
人は未来について不安に思います・・・
占いをするというのは、要は未来を知って安心したいのですね。
でも、どんな運命をも受け入れる勇気があれば、本来、占いなぞいらないものです。
さらに、神様を信じる心があれば、どんな運命でも委ねる気持ちになるでしょう。
占いは、本来、そうした人生に覚悟がない人、臆病な人のためのツールになります。
多くに人は、自分に良い未来が書かれていることを期待して占いを受けます。
しかし、そうではない場合、嘆き悲しんだり、都合の悪いことは受け入れなかったりします。
占いの結果も、どれが有益かどうか、すべてはその人の受け入れ方によります。
たとえ未来を知ったとしても、その人生の深い意義が分からなければ、嘆くばかりでどうしようもありません。
占いの結果で一喜一憂するのではなく、前向きに人生を受け入れ、向上するように使っていただけると幸いです。