どの道を通っても神様のところへ行ける。

どの宗教だって真実だよ。

屋根に上がることが重要なんだ。

それには石の階段でも上がれる。木の階段でも上がれる。竹梯子でも上がれる。綱をよじ登っても上がれるし、竹竿を使って高跳びしても上がれるわけだ。

他の宗教には間違いや迷信があるというのかね?

そりゃそうさ、どの宗教にだって間違いはあるよ。

誰もが自分の時計だけが正しいと思っている。

神様を慕う心があれば、それでいいんだ。

あのお方(神)が大好きになって、求める気持ちがあればそれでいいんだよ。

あのお方は、人の心の中のことは何もかもご承知でね、願い事や憧れていることを全てお見通しだ。

それからね、バクタ(神を愛する者、信仰者)たちは、あのお方のことをいろいろな名前で呼んでいる。

だが、一人のお方を呼んでいるんだよ。

一つの貯水池にいくつもガート(水汲み場)がある。

ヒンドゥ教徒はある水汲み場で水を汲んでジョルと言い、イスラム教徒は別の水汲み場で汲んでパーニーと呼び、キリスト教徒はまた別の水汲み場で汲んでウォーターと呼んでいる。また他の人たちは別の所から汲んでアクアと言っている。

一つの神様を様々な名前で呼ぶのだ。

真心をこめて行いさえすれば、どんな宗教に入っていても神様が掴める。

ヴィシュヌ派でも神様が掴めるし、シャクティ派でも、ヴェーダーンタ派でも、ブラフマ協会の会員でも、ちゃんと掴める。

それにイスラム教徒だって、クリスチャンだって、みんな掴める。

真面目に、熱心に信仰していれば、誰でも神様を掴むことができるのだ。

中にはいちゃもんを付ける連中もいるよ。こう言うんだ。
『我々のクリシュナを拝むのでなければ決して救われない』とか、『いや、我々の大実母カーリーを拝まなければ救われない』とか、『我々のキリスト教を信じなければ永久に救われない』とか。

これが『宗派根性』というものだ。

つまり、自分の宗教だけが正しくて、他のはみな邪教だと言う。

この根性が悪い。

神様のところへは、いろいろな道を通って着くのだ。

また、中には、『神様には形がある。形の無い神などはあり得ない』と言い張る人たちもいる!

ヴィシュヌ派とヴェーダーンタ派は、この点で議論しているようだ。

もし神様に直接会ったなら正しいことが言えるだろう。

会ったことのある人なら、神は有形でもあり、また無形でもあるということを、はっきりと知っている。

それに、あのお方(神)は、こうだと言い切ることなどできないのだ。

何人かの盲人が象のそばを通りがかった。

誰かが、『その動物は象だよ』と教えてくれた。すると盲人たちは、象とはどのようなものだろうかと、皆して象の体に触り始めた。

一人が、『象は柱のようのものだよ!』と言った。彼は脚に触っていたのだ。

別の一人は、『象はウチワみたいなものだ!』と言った。耳だけ触っていたのだ。

他の者は、鼻や胴体に触って、また違うことを言い出した。

同じように、無限の神の一部分だけを見て、神とはこんなもの、これ以外にない、と思いこんでいるんだよ。

こう思ってはいけないよ。つまり、これだけが正しくて他のはみな間違いだなんて。

私には、どの宗教を見ても皆一つだ。

全ては、あの一つのものから出ている。

無性無相の実在であるあの御方が同時に形をもっていらっしゃるのだ。

様々な形になって現れていらっしゃるのだ。

全ての宗派は同じ目的をもっている。

ただ利己的な目的のためにい争っているに過ぎない。

真理のために熱心なのではなく、我が名、汝の名の故に熱心なのである。

二者は同じ真理を説く。

しかし、その一方が言う。『あれは真理ではあり得ない。何故なら、その上に私の名の印が押していないからだ。だから彼の言うことを聞くな』。

他の一方も同じことを言う。

 

 ―聖ラーマクリシュナ

 

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