【言葉】:『信じる力』:サイババの言葉
自分はちっぽけで弱いといって、朝から晩まで自分を責めている人は、何もやり遂げられません。
自分は運がなくて下流だと思っている人は、そう思うことで運がなくなり下流になります。
反対に、自分は神の火花だ、自分は自分の実体である神を所持している、という自覚を培うなら、あなたは本当に神になれます。
そしてすべての力を自由自在にすることができます。
「ヤッド・バーヴァム・タッド・バヴァティ」(あなたの思いのとおりに、あなたはなる。)
最も重要なのは、あなたがどう思うかです。
それがあなたの存在のすべての基盤です。
アートマ(真我)を信じなさい。
これは人間にとって必須です。
それがないと、人間は怪物に成り下がり、悪徳と邪悪にふけります。
あなた方の祖先は、もっぱらその信じる力によって、繁栄と平安と喜びを得、ゴールへの到達に成功しました。
覚えておきなさい。その信じる力を失えば、人は必ず転落します。
なぜなら、信じる力は命を支える息吹そのものだからです。
アートマ(真我)を信じることは、神(シヴァ)の原理の表れです。
信じる力は、人にあらゆる形態の力を授け、あなたを完全で満たされた者(プールナ)とするでしょう。
-サティヤ・サイババ 『ヴィッディヤーヴァーヒニー 第14章』
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夢見るものが神の子としてのホントの自分で、この世界も、この世界の中にいる夢の主人公としての自分(自我としての自分)も、すべては夢。
肉体が、健康状態が、年齢が、仕事が、金が、世界経済が、コロナが・・・夢が伝えてくる悲惨な状況、自分が抱えている悲惨な状態、これが全部ウソで実在していない、としたなら・・・・
夢を信じない、という選択もできますね。
茶猫さん
>夢を信じない、という選択もできますね。
心から信じられれば、そういう選択もできるかもしれませんね。
ただ、寝ているとき、夢の中で、「これは夢」だと思えないように、
この現実の中で、「これは実在していない」と思うことは、非常に難しいかもしれません
足をぶつけたとき、「この痛みは幻想だ」とは思えず、「実際に痛みがある」としか思えないですよね。
自分(エゴ)がある限り、この世をいくら否定しても、単なる現実逃避にしかならないのかもしれません。
この世という夢から目覚め、自分の本性・この世界の真実に気づくには、限りなく自我・エゴを小さくしていくしか、しょうがないのかもしれません。
ある人(ヒスロップ博士だったかな?)がサイババに、「どうしてこの世はこんなに苦しみに満ちているのでしょう?」と尋ねたところ、
サイババは
「どこに苦しみがあるのですか?
と言い、手のひらを上に向け肩をすくめたそうです。
おそらく、悟った人や神様の目からは、この世は現実でなく、苦しみも幻想なのかもしれませんが・・・私はいまだにその意味がつかめずにいます。
自我の目を通して見れば、悲惨な世界、苦しみ、絶望。キリスト(真我)の目を通して見れば平安、何も起きていない。2つに1つで和解できない。
自我の目を通して見たものは、すべて幻想(ウソ)なのですが、そうはいっても、こうして自我として存在して、自我としてこの世界を体験しているわけで、どうやっても逃れられない自分がいます・・・。
いくら知性で理解しても無理で、知識の理解も大して役には立たず、ホントに辛くなる時があります・・・。
でも、これが夢だとわかっているだけでも違うのではないかな、と思ったりします。
自我は強力なので、あーこうやって自我の目を通して世界を解釈しているんだなあ、と、自分を咎めずに観察するだけに留め、無理に、自我を取り除こうとしたり、いい人ぶったりしないようにしています。自我の激しい抵抗にあって、負けるからです。
ホントの自分であるキリスト(真我)は、この時空を超えた世界にいて、すべて満たされていて、足りないものもなく、恐ろしいこともなく、今も神の中で安らいでいます。でも、私たちは、神から離れたらどうなるか、という神からの分離の悪夢を見ているのだと思います。そして、その悪夢の主人公が自分(自我)であり、世界であり・・・。
だから、人間はみんな、足りないとか、恐ろしいとか、罪悪感とか、攻撃的な思いとかを根底に持っているのだと思います。そしてそれを世界に投影しているのだと思います。
自分のアイデンティティーは、この肉体をもった小さい自分ではなく、キリスト(真我)なんだと思っています。その思いが、この人生の夢に反映されればいいなあ、と思っています。
夢は夢でも、幸せな夢がいいですからね(笑。
仮に夢でも、苦しいのは嫌だし、できればいい夢が見たいですよね。
人生、およびこの世界は苦しいですね。
生きるのも、老いるのも、病気も、死ぬのも・・・
愛するものと別れも、怨み憎むもの出会いも・・・
求めても得られないことも、いっさいは苦に満ちていると言えます。
私が何十年もずっと疑問に思ってきたことは・・・
『なぜ、愛であるはずの神様が、こんなに苦しみに満ちた世界をお作りになったのか?』ということです。
これらの苦しみは人間が無知で愚かなせいと、神様は言わるかもしれません。
自分の悪行によるカルマ、因果応報、自業自得と言えば、おそらくそうなのでしょう。
でも、人をそのようにお作りになったのも神様ではないのでしょうか?
それとも、神は幸せに人を作ったけど、禁断の木の実(知恵の実)を人が食べ、原罪を受けているのでしょうか?
でもその木(の実)を作ったのも神だし、神なら人間がそれを食べることを知っていたでしょう。
全ては神の御心のうちです。
おそらく、私たちは、自分が神であることを忘れ、自我という小さな「私」を持ち、至福である神を離れ、この世界に降り立ったのでしょう・・・苦しむことを承知で。
なぜかと言われれば・・・おそらく、
「経験したかったから」
そこから、悲喜・善悪・生死・・・ありとあらゆる、二元性が現れたのだと思います。
茶猫さんの言葉から一つ思い出されるのは、神との対話という本の『 小さな魂と太陽 』という話です(※以前にも、どこかで投稿したと思います)。
本当の私と、この世の私・・・
この世の「悪や悲惨」というものについての見方を、たとえ話で説明しています。
2つお話があります。少し紹介します。
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神との対話『 小さな魂と太陽 』Part1
かつて、自らが光であることを知っている魂があった。
「わたしは光だ」とそれは言った。「わたしは光だ!」。
だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても体験にかえることはできない。
この魂が生まれた領域では、光しかなかった。
どの魂も偉大で、どの魂もすばらしく、どの魂もわたしの神々しい光を受けて輝いていた。
そこでは、その小さな魂は、まるで太陽の前のロウソクのようだった。
偉大な光の中では、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない(表現できない)。
その小さな魂は自分自身を知りたくてたまらなくなった。
あまりに知りたがるので、或る日、わたしは言った。
「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、わかるか」
「どうすればいいのですか、神様? わたしは何でもします!」
「お前は、わたしたちから離れなければならない」とわたしは言った。
「そうして、闇を求めなければならない」
「闇というのはなんですか、聖なる方?」と小さな魂は尋ねた。
「それはお前ではないものだ」とわたしは答え、小さな魂は理解した。
そこで、小さな魂は全体から離れ、別の領域に行った。
その領域ではあらゆる闇を体験することができた。そして、闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。
「父よ、父よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか?」
―――――――――――――――――――――――――――
上のお話には続きがあります。
続きと言うか、時系列では、上の話の途中に入るべきお話ですが・・・
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『 小さな魂と太陽 』 Part2
どんな神の一部になるか、好きなものを選んでいいよ と、わたしは小さな魂に言った
「あなたは、神性のどんな部分を、自分として経験したいかな?」
「それでは、わたしは赦しを選びます。完璧な許しという部分を体験したいんです」
と、小さな魂は言った。
さて、想像がつくだろうが、これは少々厄介な問題を生んだ。誰も赦すべき相手がいなかったのだ。
創造されたものはすべて完璧であり、愛であったから。
「赦す相手がいないんですか?」 小さな魂は尋ねた
「誰もいない」 わたしは答えた。
「まわりを見渡してごらん。あなたより完璧でない魂、すばらしくない魂が見えるかな?」
そこで、小さな魂はくるりとみわたして、自分が天のすべての魂にとりかこまれているのに気付いて驚いた。
魂たちは、王国のはるか彼方から集まってきていた。 小さな魂が、とてつもない神との対話をするといってやってきたのだ。
「わたしより完璧でない魂は見つかりません!」 小さな魂は叫んだ。
「それじゃ、誰を赦したらいいんでしょうか?」
そのとき、ひとつの魂が群衆の中から進み出た。「わたしを赦せばいい」と、その友好的な魂は言った。
「何を赦すんですか?」小さな魂は尋ねた。
「あなたの次の物質的な人生に出かけていって、何かをするから、それをあなたが赦せばいい」友好的な魂は答えた
小さな魂には信じられなかった。 これほど完璧な存在が、「赦し」を受けるような「自分を貶める」行いをするということが、想像できなかった。
「しかし、どうしてそんなことをしてくれるんですか?」小さな魂は尋ねた。
「簡単だよ」友好的な魂は説明した。「あなたを愛しているからするんだ。あなたは赦しとして自己を体験したい。そうなんだろう?」
「『寒』がなければ『暖』もありえない。『悲しみ』がなければ、『幸福』もない。『悪』と呼ばれるものがなければ、『善』と呼ばれる体験もありえない」
「あなたが、あることを選ぶためには、それと反対の何か、あるいは誰かが、宇宙のどこかに現れないといけない」
友好的な魂はそう説明すると、小さな魂に
「最後にひとつ、忘れずにいて欲しいことがある」 と告げた。
「わたしがあなたを襲い、暴力を振るうとき、想像しうるかぎりの最悪のことをするとき・・・、 その瞬間に・・・ 本当のわたしを思い出してほしい」
「忘れませんとも!」 小さな魂は約束した。
「今と同じように、完璧なあなたを見ます。ほんとうのあなたを、いつも思い出します」
そう、小さな魂は答えた。
―――――――――――――――――――――――――――
以上です。
この世の苦や悪をどう理解するか・・・
この上の話を信じれば、この世界の見方が変わるかもしれません。
人間は起きてくることの表層しか見ることはできません。
それで、良いとか悪いとか判断するわけです。
でも、この世で起こることはすべて最善であると言われます。
その人の過去、現在、未来、全てのカルマと、これから取りうる行為、歩むべき道、魂の望んでいること・・・
全てが見えたら、きっとこの世のすべてが最善であることが分かるのかもしれません。
悲惨・最悪としか言いようのない事象の中にも、大善は潜んでいると言われます。
コロナも、戦争も、貧困や病気も、日常の小さな苦しみも・・・
大きな視点があれば、全ては、大きな善・愛というものに包まれているのかもしれません。
ありがとうございます。
人生は苦しみに満ちている・・・苦しみに満ちた世界をなぜ神がおつくりになったのか・・・・。
「奇跡講座」という本に書いてあった内容ですが、実際は、神(実在)がこの世界をお造りになったのではなく、神から分離した心が見ている、ただの夢(非実在)かもしれません。
もともと神の中で、神とひとつだった神の子に、「神から離れたらどうなるか」、という小さな狂った考えが忍び込み、分離の夢が始まりました。私たちは夢の登場人物(個我)として、世界という夢の中で、夢を現実のものとして体験しています。
神のようになりたい!特別な存在になりたい!神から独立して自分でやりたい(自立)!神から離れた!なんてことをしてしまったんだ(罪悪感)!神から罰せられる!神から攻撃される(攻撃性)!恐ろしい(恐怖)!神から切り離された、ない、足りない(不足)!失った!守ってくれない!など、神から分離した時の原初の思いを、形態を変えて、繰り返し繰り返しテープレコーダーのように再生しているそうです。
真我(キリスト、神の子)という真のアイデンティティーを忘れ、個我(肉体)が自分だと錯覚している、迷える子羊ですね。
人知を超えた世界ですが、まあ大体そんな感じなのだろうな、と感じています。
>>「ヤッド・バーヴァム・タッド・バヴァティ」(あなたの思いのとおりに、あなたはなる。)
願った通りにではなく、普段思っている通りになるとはいいますね(笑。人生の迷い道に入り、悩んだり迷ったり苦しんだり絶望したり・・、自分は一体何をやってるんだろう、と思います(笑。
・人格や品性を磨いても、瓦(自我)はどれだけ磨いてもダイヤモンド(真我)にはならず瓦なので無駄。人格者を目指すことが、偽善にしかみえない。
・一生懸命勉強した所で、役に立っていない。
・知識が足りない足りない、と満たしたところで、いつまでたっても永遠にきりがない。
・目標を立てて仕事を頑張ったところで、ラットレースでどこにも行きつかない。天職は何?もっといい仕事先があるはずでは?ここが嫌だ、あれが嫌だ、この場所は嫌だ。
・何をやってもやらなくても、最後は全部取り上げられて、負けて死ぬ(笑。
こう考えると、やる気、意欲をなくし、何をやっても無駄に感じ、現実逃避かサニヤシみたいな心情になってしまいます(笑。
でも、サイババも、人生を捨てなさいとか、投げなさい、とは言っていませんね。捨てることは求められていませんね。
人生を否定し、個我を否定し、自分の経験・体験を否定し、世の中を否定し、幻想だ、夢だ、とやった所で、個我(自分)から逃れられないのを、わかっていらっしゃるのだと思います。
別に金儲けに勤しんでもいいし、仕事で頑張ってもいいし、何をやってもやらなくてもいいんですが、人間として生きていく以上は、たとえそれが夢であっても、やるべきことは、しっかりとやっていかないといけないな、と思っています。
実際は、自由意志があるかは謎で、運命の奴隷なのかもしれませんが・・・。
とはいえ、今まで通りの生き方だと進歩がないので、人生という映画を、赦しの実践に使っていくとか、目的を変えることで、人生の意味が変わっていくといいな、と思っています。
>こう考えると、やる気、意欲をなくし、何をやっても無駄に感じ、現実逃避かサニヤシみたいな心情になってしまいます(笑。
そうですね。
私も、自分の成長が遅々とし過ぎて、修行のようなものがむなしく感じるときがあります。
そんな時は、「行為をしない」、「無為」というのも、一つの回答かもしれません。(※瞑想がそれに近いかな・・・)
和尚がこんな言葉を残しています(↓)
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『「そこ」とは「ここ」だ』
私は、夜の散歩に出かけた。
村の道はでこぼこしていて、平坦ではなかった。
一緒にいた友人の僧侶は、長いこと旅を続けていた。
いまだ彼の訪れておらぬ巡礼地はほとんどなかった。
彼は、神性への道を探し求めていた。
その夜、彼は尋ねた。
「何が、神性へと導く道なのでしょうか?」
彼はこの問いを、他の大勢に尋ねてきた。
しだいに、彼は多くの道に精通するようになったが、
彼と神性との距離は、少しも変わらなかった。
彼がそれらの道に挑まなかったということではない。
彼はできることはすべてやった。
しかし、その結果は、ただ道に足跡を刻むことだけだった。
彼はどんな終着地にも到達していなかったが、
まだ旅に疲れるでもなく、新たな道の探求は続いていた。
しばらく沈黙にとどまった後、私は言った。
「私自身であるものへと到達する道というものは、存在しない。
諸々の道は、『他』と『遠く』に到るためにある。
近くにあるもの―近いどころか、私自身であるもの―は、道という手段によっては到達し得ないものだ。
そこには、道が介在するための空間はない。
到達とは、失ったがゆえのもの――
だが、これまでに神性が失われたためしがあるだろうか?」
失われ得るものは、己が自己ではあり得ない。
自己は、忘却され得るだけだ。
それゆえに、
どこ人は何処へも行く必要がない――ただ思い出すだけでいい。
為されるべきことは何もない――ただ知るだけでいい。
そして、知ることは到達することだ。
私たちが知る必要があるのは――私とは誰かということ、これを知ることが、神性へと到達することだ。
いつの日か、
あらゆる努力が空しくなり、
辿るべき道はどこにもないように思えるとき、私たちのいかなる行為も、
真理を達成しはしないということが明白になる。
無為は、「私」という神秘を解き明かす。
なぜなら、あらゆる行為は、人の注意をそらすからだ。
無為は、私たちを存在へと連れていく。
行為が止む地点において、実存(being)は自身を顕す。
無為が、それを私たちに与えるだろう、
なぜなら、
実存はあらゆる活動以前に存在しているからだ。
「そこ」へと導く道はない、
なぜなら、[そこ]とは「ここ」だからだ。
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ある意味、茶猫さんのような行為への無力感・絶望感があるというのは、霊的には進んでいるのかもしれません。
無為というのは、瞑想に近いと思います。
瞑想は行為ではなく状態だと言われます。
瞑想は「無為」・「行為を手放すこと」ですね。
茶猫さんの仰るように、私たちが分離の夢を見ているとして、分離の前に戻るのが「瞑想」かもしれません。
http://indian-vedic-astrology.com/kotoba-K-meditation.html