【言葉】:タゴールの詩②
危険から守り給えと祈るのではなく、
危険と勇敢に立ち向かえますように。
痛みが鎮まることを乞うのではなく、
痛みに打ち克つ心を乞えますように。
人生という戦場で味方をさがすのではなく、
自分自身の力を見いだせますように。
不安と怖れの下で救済を切望するのではなく、
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように。
成功の中にのみ
あなたの恵みを感じるような
卑怯者ではなく、
失意のときにこそ、
あなたの御手に握られていることに
気づけますように。
ラビンドラナート・タゴール
関連記事:
- 【言葉】:タゴールの詩①
- 【言葉】 V. E. フランクルの言葉
- 【言葉】:「あなたの本質」・・・サティヤ サイババの言葉
- 【言葉】:カルマの法則ーサティヤ・サイババの言葉
- 【言葉】『内なる幸せ・内なる自己』:サイババの言葉
ほんとですね。失意のどん底にいる時、世間的にも、どうしていいかわからず、絶望している時、本当に神はいるのか、神も仏もない、という気になりますよね・・・。
誰かが助けてくれるわけでもなく、かといって、神さまが助けてくれるわけでもなく、自分の力で乗り越えようにも、どうしていいかわからず、死んだ方がいいんじゃないか、と思っても死ねず・・・、こういう時は、恐れ、不安、心配、恐怖の気持ちに巻き込まれ、自分を責める心で満たされます。
なんだかなあ・・。
自分の力を強める見方・考え方・捉え方と、自分の力を弱める見方・考え方・捉え方がありますね。
絶望の中にいる時、どうしていいかわからない時、不安や恐れの中にいる時に、人は、どうしても、自暴自棄になったり、神様助けてください、と神に縋りたくなったり、人に助けを請い願いたくなります。
そして、助けてくれない神に対して、恨みつらみの思いを抱き、人に対しても、どうせみんな自己中で自分中心でしかないんだ、冷たい、と、ひがむ気持ちが生まれてきます。
でも、これらの思いは、すべて自分を弱める思いなのですね。神様は、すでに乗り越える力は与えてくださっています。それを、幼いころから培った、自分の思い癖や考え、ものの見方などが邪魔しているのです。
辛く、苦しい時、どうしていいかわからない時、迷いの中にいるとき、絶望の中にいる時にこそ、神に縋り助けを請い願ったり、人の助けを求めるのではなく、自分で乗り越える力が持てるように、あきらめない心が持てるように、行動していく勇気が持てるように、毎日、神に願おうと思います。
その思いに、きっと神は答えてくださり、生き抜く力を引き出してくれるはずです。
タゴールさんの誌は知りませんでした。
気づきを与えてくれた、タゴールさん、ISOPさんに感謝。気づかせてくれてありがとう。
本当に強い人の詩ですよね。
私も気が狂うほど悲しいことも、つらいこともありました。
でも、今考えると、そんな時にこそ、神様は近くにいてくれたんだと思います。
人生には2つの目標があると思っています。
一つは幸せになる事、もう一つは成長すること。
後者は多くの場合、苦しみが伴います。
どちらも人生に必要なものです。
そう思えば、幸せにも苦しみにも、どちらにも感謝できるはずです。
その理解があれば、どちらがやって来ても、神様が自分に必要なことをもたらしてくれたと信頼・感謝することができます。
自分に不都合なことが起こっていると思う人は、神様への信頼が足りないのです。
「神様を愛している」と言う人はたくさんいますが、その多くは、
本当は神様自身を愛しているではなく、
神様からもたらされるだろう何か(=健康や成功や安全や快楽や金銭や天国などの死後の幸福など)を愛しているだけです。
彼らが本当に愛しているのは「神」でなく、「自分」または「自分への利益」です。
それらを欲しくて、神様に「あなたを愛している」と媚を売っているだけです。
彼らにとって神様は、自分の欲しいものを得るための単なる道具にすぎません。
タゴール風に言うならば、ただ神様を利用して、自分が得をしたいだけの卑怯者です。
欲しいのは神様ではなく、自分の利益だから、自分の欲するものが得られないと、神様に文句を言ったり、役に立たないと神様を捨てたりするのです。
実は私も、神様が好きなのか、それとも神様からもたらされるものを欲しているだけなのか、どちらなのか分かりません。
もう大昔になりますが、私は、猫たちの幸せと冥福を願って、神様に祈り始めました。
私が欲しいのは、神様ではなく、それらなのかもしれません。
私も、ただ神様を利用して、自分の欲するものが欲しかっただけの卑怯者なのかもしれません。
それに気が付くと、恥ずかしくなって、神様に「申し訳ありません」と謝る次第です。
でも、それでもいいのかもしれません。
神を求める最初の動機は不純であっても、次第に純化していくであろうから、すべては単なるプロセスの一部に過ぎないのかもしれません。
「どんな人もいずれ導かれる」・・・それも、私が神様に対して信頼していることです。
私もいつか、本当に神様が好きになり、神様自身を求めるときがやってくるのかもしれません。