【言葉】:カルマと起きる出来事(マハリシの言葉)

質問者「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマ(行いの結果)によってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてにいたるまで、取るに足らないことまで、すでに決定されているのでしょうか?
例えば、いま私は手の中の扇を床の上に置きました。それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くという事まで、すでに決定されているということなのでしょうか?」
ラマナ マハルシ「もちろんだ。
何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現したときにすでに決定されているのである」。
質問者「それでは人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょう?」
マハルシ「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーナ(叡智)を得ることである。
それが彼と身体との同一化を断ち切る。
身体はプラーラブダ(前世から持ち越した清算されるべきカルマ)によって宿命付けられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。
人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、
あるいは、それから離れ、身体の活動の単なる目撃者になるか、
という選択の自由だけを持っているのである。
身体が通り抜ける全ての行動は、それが生まれたときに決定されているのである。」
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人生塞翁が馬
何が吉になるか
何が凶になるかは人間の判断を超えてると思いますが
火事を凶だと考えると
怒りのエネルギーを具現化したものが火事だと思います
火事が起きた前
激しい怒りがありましたか?
もしくは誰かから激しい怒りを貰うことがありましたか?
人生は自分でコントロールできない部分と
できる部分があると思います
心臓に疾患があり
本来短い命だったはずの人が
手術で命を長らえる場合があるように
天命とは
いろんな要素が絡んでいます
ある人の生年月日だけでは判断できないのは
その人の行為やその人の思考
その人の環境誰と関わるかもその人の運命に影響するからです
弱い花も
下手な人が栽培したら枯れるとしても
上手な人が栽培したら美しく咲く場合もあるでしょう
私はその理を知りたくて占いを勉強しています
火事がただの偶然の場合もあるでしょう
しかし占い的に見たとき
何か他の原因があるのかなと
間違いを気づかせる時
天は本人ではなく本人の1番大事なものを奪うこともあるのかなあと思います
isop様は火事の前に
心を動揺させられたり
強く怒ったり
強く恨んだことがあるでしょうか?
占いの勉強の為に知りたいと思いました
お答えしたくなければスルーしてください
すみません
返信、遅くなりまして、申し訳ありません。
放置プレー状態でしたm(__)m
火事の前ですが、医療ミスで猫が前日に亡くなっているので、すごく悲しかったですね。
医療ミスに対する怒りも少しあったかもしれません。
匿名様は、「運命は変えられる」と思っているようですが、上記のマハリシの言葉はどう思いますか?
私は今でも分かりません。
運命は変えられるのか・・・
運命が決まっているなら、どこまで決まっているのか・・・
変わったように見える運命さえ、元々決まっていたのか・・・
もし、その人が悪事をすることが不可避のごとく運命で決まっていて、それに対するカルマを受け、不幸にならなければいけないなら、その人に行為の責任はあるのか?そうならば、運命は不公平ではないのか?
じゃあ、人間の自由意志とは何なのか?自由に見える心の動きさえ、運命で決まっているのか?
私にはよく分かりません。
お返事ありがとうございます
怒りは少しはあったようですがそれより悲しみが主体だったようですので心と現象はリンクされてなかったと検証できますが
因果はすぐ反映されるとは限りませんので引き続き私は心と現象について日々検証を続けて参ります
マハリシの言うことは真実だと思いますよ
ガーベラの花の種からはガーベラが咲きます
それが運命です
しかし弱いガーベラの種がそのままだったら枯れるところを肥料をやり必要なら水を多めにしたり必要なら日陰を作ったりしてあげることで枯れない場合もあると思うのです
ガーベラとして生まれた運命は変えられませんが努力することでガーベラとしてより美しく咲くことができたり次はもっと違う色に咲くよう品種改良していくことはできます
今は変えられません
過去の因果が今なので
しかし未来は変えられます
今何をするかで
それが私の考えです
自分が自分として生まれたことは運命であり
変えられない要素は多々あります
血液型だとか肌の色もそうですね
しかし例えば表情は自分次第
話す言葉も自分次第であり
それを変えるのは気づきです
言葉や表情を変えるだけで崖の方に進んでいた道から光の差す方の道に進路を変えることさえあると私は思っています
バタフライエフェクトですね
人は起こったことしか分かりません
本当は大悲劇を避けられていたとしてもそれを知らずにいるのです
ISOPさんはもしかしたら火事で亡くなっていたかもしれない
ISOPさんの火事で他人が死んでいたかもしれない
そんな未来をISOPさんは変えているのかもしれない
猫たちもそうです
本来もっと苦しんでいたかもしれない
ISOPさんのおかげで苦しみが和らいでいるかもしれない
避けた未来
訪れなかった未来を人は知ることはできないので起こったことで判断しがちです
しかし私は未来は変えられるからこそ占いはあると思います
地図があるほうが目的地へ辿り着きやすいです
占いは私にとってそんな存在です
掴めなかった幸せな未来
もし掴めていたら実は地獄の入り口だったかもしれない
人生は深く面白いです
運命は変えられない部分と変えられる部分があると思います
しかし変えられる部分さえ簡単なものから難しいものまでありますよね
すぐ怒っちゃう性格を変えたら運が良くなると分かっていてもそれが難しいのよねぇ、みたいな
運命は変えていけるとしても
それを大きく変えようとするとやはり難しいとは思います
しかし小さく変わるだけでも
だいぶ違うのが人の人生かなとも思います
人は比べる生き物です
つい自分より上と比べるので自分が運がだいぶ良くなっていることにさえ気づかず周りと比べて無いものねだりをし自分はこんなに頑張っているのに良くならないと嘆いたりもしているのではないでしょうか
しかし努力していなかった世界線の自分ともし比べられることができたとしたら
良くも悪くも状況がだいぶ違っていることに気づくだろうなあと思います
ご返信、ありがとうございます。
運命は変えられるのか・・・これは占星術師によっても見解が変わりますね。
匿名さんの意見のような、「変えられない部分と変えられる部分がある」という意見が多数派だと思います。
一方、私がインド占星術を学ぶきっかけになった占い師がいるんですが、その人は、
「人は、一円たりとも決められた収入より多く得ることはないし、また、一秒たりとも決められた寿命を延ばせる人もいない」と言っていました。
これはある意味、人に自由はないという決定論ですね。
紹介した聖者の言葉でも、変えられると言ったり、決まっていると言ったり、お互い矛盾している部分もあります。
これらをどう解釈するのか?・・・おそらく、運命は変えられるのか、決まっているのかは、視点によるのだと思っています。
例えば、ある小説があり、その主人公が、努力で定められた運命を変えて、切り開くストーリーであったとしましょう。
小説の舞台に立てば、運命を変えられるというのは事実であり、正しいのかもしれません。
小説の舞台から離れてみれば、運命が変わるというストーリー自体、作者によって決められた運命と言うことができます。
運命は変えられるのか?決まっているのか?・・・小説の中に入って見るか、外から見るかで、どちらも正しいのでしょう。
インド人聖者やヴェーダーでは、真に行為しているのは神だと言われます。
じゃあ、行為の結果は誰に責任があるのか?という疑問がわきます。
私たちの行為が神によって運命づけられており、また全ての真の行為者が神ならば、全ての行為は神の責任ということにならないのでしょうか?
運命で罪を犯すように定められており、その通り罪も犯しても、その人の責任なのでしょうか?
罪を犯すように作られたものが罪を犯して、カルマで罰せられなければいけないのでしょうか?
全てが神の御心なら、悲惨な戦争、犯罪、災害、病気、飢餓・・・これらは神の意図でしょうか?
私にとっても、そんな過酷なものが真実であるとは受け入れがたいので、「人は自由がある」「起きる出来事は決まっていない」としたいのですが、何か根拠があるものではなく、希望的観測にすぎないのかもしれません・・・
運命と自由意志・・・ナラヤン師やサイババが語ったことが一番正確なのかもしれません。
https://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2014/10/17/fate-and-free-will/
https://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2020/09/12/agastya-nadi/
でも、彼らの語った真意を、私はまだ掴めないでいます。
産まれた場所と時間で
誰と出会うか(親、兄弟、同級生、学校の担任の先生)
何を経験するか(平和、戦争、貧富、国や場所で学校で教えてもらえる勉強が違う、)
そこから人間は経験を積み重ねて知識などで
判断し活動するのだから
産まれた時から運命が決まってるのは当たり前
ある朝に
ここの道を通って学校に行こうとして
ちょうど来た車に轢かれるならそれも運命です
人間とは
親が欲しいから勝手に作った、産まれただけです
なんの為に生きるかなども執着するだけ無意味です
親に勝手に作られたが為に
苦しんだり幸せだったりするだけなのですから
さて
過去に悪事を働いたからこの世でひどい目に会うならば
広島で原爆で死んだ人たちは
前世で極悪人だったのでしょうか?
東日本大震災や阪神大震災で死んだ人たちも
全て極悪人だったのでしょうか?
彼らは死ぬべき人間だったのでしょうか?
この世界は嘘と捏造の悪魔崇拝宗教が広まっています
そして現世において悪の報いは
実験の結果観察されませんでした
最初に生き物が発生して
食う者と食われる者にわかれたのは
なんの過去世の因果なのか
>人間とは
>親が欲しいから勝手に作った、産まれただけです
>なんの為に生きるかなども執着するだけ無意味です
>親に勝手に作られたが為に
>苦しんだり幸せだったりするだけなのですから
苦しみや幸せの原因が、親が産んだからって・・・
それは最表面の原因でしょう。
あなたの言う「親」という原因は、最も直接的・表面的な原因を言っています。
例えば、誰かが亡くなって、「この人が死んだ理由は?」と問われ、医者は「ガンです」と答えるでしょう。
健康オタクな人なら、「不節制な生活や食習慣が原因」と言うかもしれません。
占い師なら、「チャートでこうこうこうなっているからです」と説明するかもしれません。
前世の見える聖人なら、「過去世にこういう行為をしたからだ」と言うかもしれません。
下に行くほど、より深いところの原因です。
自分の運命が「親が産んだから」っていうのは、もっとも薄っぺらいところです。
その人の直面する運命は、「親」が原因ではありません。
親は選べないというが、あなたの過去の行為・カルマがその親を選ばせたのです。
あなたが直面している現実は、親のせいではなく、あなた自身が原因です。
親は、あなたのカルマ・運命を成就させるための道具にすぎません。
全てはあなたの責任なのです。
それが分からない限り、自分の運不運・幸不幸を、偶然の産物か、誰かのせいにして生きるでしょう。
運命はあなたが作った物です。
それが分かれば、この世は完璧であることに気づくでしょう。
自分の人生と運命に、すべて責任を持つようになるでしょう。
ここにきている人はインド占星術師の方が多いと思いますが、おそらくあなたの言うことには同意しないでしょう。
チャートと言うのは前世からのカルマがその人のチャートを成り立たせるのです。
だから、インド占星術師というのは、人のカルマを見ているようなものです。
あなたは観察して、「善悪やカルマの影響はなかった」と言いますが、
ここにきている人たちは、何十、何百という例のカルマの影響を観察しています。
そして、それが実際に当たる・正しいことを実感・観察しています。
だから、カルマがないとか、善悪の影響がないとか、そんなことを言っても無駄です。
カルマと言うのは、いつ返ってくるか分かりません。
あなたの言う観察は、時間の概念がないのです。
善行をしても、良い結果が生まれなかった?
悪行をしても、悪いことが起きなかった?
それは、当たり前です。
すぐに返ってくるのなんて稀だからです。
カルマのこの時間差ゆえに、人は騙されて、あなたのような結論を出すのです。
和尚が言う通りです(↓)
https://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2016/04/23/karma-and-responsibility/
「原爆や地震、災害で亡くなった人は、極悪人だったのか?」とのことですが・・・
では、匿名さんは、なぜその人たちは苦しみにあったとお考えですか?
運命のいたずら・・・要はたまたまですか?
親が産んだからですか?
インド占星術師として回答するならば・・・
極悪人かどうかは分かりませんが、過去にそういう災害に合う原因・カルマがあったのは疑い在りません。
そのことは、一般の人は受け入れがたいし、抵抗するでしょう。
でもそれが真実です。
この世は「たまたま」「偶然」「気まぐれ」が支配しているわけでもなく、完全なる法則の基に動いています。
原因のない悲しみや苦しみはありません。
すべては、自分が他に与えたものが、返ってきているのです。
誰もあなたを傷つけることはできません。
自分が自分を傷つけることができるだけです。
誰かがあなたを傷つけたように見えても、それはあなたのカルマが返ってきただけです。
他人はそのきっかけを作った道具にすぎません。
同様に、あなたは誰も助けることができません。
助けたように見えても、それは、その人のカルマが、自分を救っただけです。
あなたは、彼のカルマが返る道具にすぎません。
誰も自分にふさわしくないものを受け取る人はいません。
悪い種からは悪い花が咲き、善い種からは善い花が咲きます。
あなたがそれを心から理解すれば、この世は完璧なまでに公平で、完全なる正義の法則に従っていることに気がつくでしょう。
悪人が幸せを謳歌しているのも、過去の善いカルマにすぎません。
いつか必ず、その悪事についての結果を受け取ることになります。
善人が苦しんでいるのも、いつか犯した自分の悪いカルマのためです。
いつか必ず、その善行の果報を受け取るでしょう。
それを理解すれば、誰も羨ましがることもなくなるでしょう。
また、誰かが(または自分が)理不尽な苦しみにあってると悲しむこともなくなるでしょう(※悲しみがなくなるわけではありませんが、「仕方ない」「因果応報」「自分の責任」と納得はするでしょう)
皆、自分のふさわしいものを受け取っているだけですから・・・
>最初に生き物が発生して
>食う者と食われる者にわかれたのは
>なんの過去世の因果なのか
最初は何の相対性もない絶対的な存在だけがあった。
でも、それは相対がないゆえに、その存在は何も経験することができなかった。
その存在は、経験したいと思ったが、完全な存在は不完全にはなり得なかった。
そこで、自分が絶対的な存在(神)であることを忘れ、自我という不完全な小さな「私」を持ち、至福である神を離れ、この世界に降り立った。
そこから、悲喜・善悪・生死・食う物・食われる物・・・ありとあらゆる、二元性・相対性が現れた。
この世の二元性については、そう説明されます。
聖書だと別の表現で・・・
神は幸せで完璧な存在として人を作ったけど、「善悪を知る実」を人が食べ、そこからあらゆる悲哀が始まったと表現されます。
まぁ、本当は創造に「最初」なんて無いんだけどね・・・
ご参考までに・・・
現実的な環境から受ける影響からの視点でも
上述の通り
世の中の裏の仕組みの側からの視点でならば
お酒を飲まない人には
あまりピンと来ないかもしれませんが
深酒して
意識が飛んだりしてると
気づいたら布団の中で寝てた
なんて事があります
そして
意識が飛んで
記憶がない状態でも
後から他の人に聞くと
記憶がない、
主観意識に
記憶の連続性がない状態でも
他人と
喋ったり、動いたり、
フザケたりしている
事があります
それは
その人が主観意識を失っても
誰かがその人の体を
運転してるという訳で
意識が無くても
ちゃんと他の人と
会話したりしてる
これが
一応その人たちの言ってる
人間を勝手に動かしてる奴です
薬理で
マイスリーなんかを服用しても
勝手に夢遊病みたいに動いたりする
これが欲や執着や好きや愛や勃起やら
何やらを勝手にしてる
だから拒食症や
勃起不全が起きたりもする
俗に
顕在意識との対比で潜在意識
或いは
意識との対比で無意識
ハイアーセルフ
インナーチャイルド
タルパなどと呼ばれます
これらに外部から干渉する方法が
呪術や祈祷儀式などになります
これらがあるので
本質として主観が
それらのもたらす情動や思考、行動などを
観察しているだけである、とするのは
少し難しいです
宗教などで
野狐憑きなどの症状は
勝手におかしな、矛盾した内容を
喋ったり勝手に動いたりしてますが
あれは宗教の祈祷や呪術などの影響で
あのように勝手におかしな内容を述べたり
或いは自動書記などで著述している
それら抜きの本質の観察が現実的に難しいです
何故なら祈祷や呪術などは
周りの人間にも影響を与える事は
観察が進めばわかるからです
一応人間に中身があるとして
それに悪さをするのが
悪霊とか悪魔とか憑き物とか
言われてる奴らですが
死んだ人の霊は
この世にはいないですが
人にとり憑く悪魔が
幻影や幻覚を起こして
あたかも死んだ人間の霊がいるかのような
幻覚を見せる事があるのです
私は
世の中の裏側の仕組みのうち
善を為すもの
善人を助ける物を神とし
悪を行わせるもの
怒りや執着やその他の
人間に悪さをする者を
悪魔としています。
私は善悪二元論になった
何故なら悪を
悪魔を神とし
神が悪を為さしめよ
などと言って
言いなりになって
それを為すなら
それはオウム真理教などと
変わらないし
悪を為すのも
あまり好きではないからです
どう思うかや
それに執着する、
囚われる作用を
起こされたり干渉されたら
中々抵抗は難しいですが