「疑いと信用と信仰」


「疑い」とはどんなことに対しても否定的な態度を言う。
何を言われてもあなたはまず否定的に見る。
それに反対する。
そしてあなた理由や理屈
つまりどうやって自分のその反対を守るかを探し出す。

次に「信用」の心というものがある
これは全く疑いの心と同じだ。
ただ逆立ちしているだけのこと。
そこに大した違いはない。
この心はものごとを肯定的に見
どうやってそれを守り
どうやってそれを味方にするかという
理由や理屈を見つけ出そうとする。

疑う心は信用を抑圧し
信ずる心のほうは疑いを抑圧する。
しかしそのふたつは同じものだ。
その質に違いはない。

そして次に
疑いというものが全く消え去ってしまったところの
三つめの心がある。

疑いが消えたとき
信用もまた消えさる。
「信仰」は「信用」じゃない
それは愛だ。
なぜならそれは半分ではなく全体だから――

「信仰」は「信用」じゃない
なぜならその中には疑いがないのだから――

疑いがなければどうして信用もできる?
「信仰」は決して理屈なんかじゃない
味方もせず敵対もせず
これでもなくあれでもない
「信仰」とは信頼するということにほかならない
ひとつの深い信頼
ひとつの愛

あなたはそれにどんな理屈もつけはしない。
それはただそうであるのだ。


― OSHO(「存在の詩」より)


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