「良寛」



良寛は1758年に越後に生まれた。
生家は名主で神官でもあった。

16歳で名主見習いとなった良寛は、
1年たらずで職を弟に譲り近くの光照寺で出家する。

その後、玉島の円通寺に参じたのは22歳のときで、
良寛は34歳までこの寺で厳しい修行を続けたあと、行脚の旅に出る。

良寛は道元の道を実践しようとし、38歳で故郷の越後に戻る。
すでに母も父も亡くなり、生家も傾き、良寛は草庵で一人暮らしはじめる。

所持品は文字どおり、一衣一鉢(いちねいっぱつ)。
着のみ着のまま、すり鉢一つである。
このすり鉢が調理道具であり、食器であり、托鉢の鉢だった。

見かねた村人が着物や食物を施すが、良寛はそれをもっと貧しい人たちに与えてしまう。


たくほどは

風がもてくる

落葉かな



良寛が詠んだ句である。
落葉を集めようとあくせくすることはない。
必要なぶんだけ風が運んできてくれるのだから。


良寛は何事においても、足ることを知っていた。

年を逐うごとに年々ますます良寛が尊ばれ、好かれ愛されてゆく。
生涯金なぞにはまるで無縁、住まうところは草庵で、乞食をして暮した。

有名なこんな句がある。


生涯懶立身
騰々任天真
嚢中三升米
炉辺一束薪
誰問迷悟跡
何知名利塵
夜雨草庵裡
双脚等間伸



(書き下し)
生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう)天真に任す
嚢中(のうちゅう)三升の米
炉辺(ろへん)一束の薪(たきぎ)
誰か問わん 迷悟(めいご)の跡(あと)
何ぞ知らん 名利(みょうり)の塵(ちり)
夜雨 草庵の裡(うち)
雙脚(そうきゃく) 等閑(とうかん)に伸ぱす


(訳)
私は一生、身を立てようという気にはなれず
ふらりふらりと天然ありのままの生きかただ
頭陀袋には米が三升
炉ばたには薪が一束
悟りだの迷いだの、そんな痕跡なぞどうでもいい
名声だの利益だの、そんな塵芥なぞ我れ関せずだ
雨ふる夜に苫のいおりのなかで
両の足をのんびりと伸ばす


ある時、良寛が住んでいた五合庵に泥棒が入った。
泥棒は庵の中を見渡してみたものの、盗むものが何もない。
すると泥棒が入り込んだのに気づいた良寛が、泥棒が取りやすい様に寝返りを打つ。
それに気がついた泥棒は、良寛のふとんを盗んだ。
良寛は黙って持って行かせた。

泥棒が行ってしまって、そっと起きてみたら、十五夜の月がまんまる。

こんな句を詠んでいる。


盗人(ぬすびと)に

とり残されし

窓の月



晩年には、40も歳の離れた若い尼僧、貞心尼と恋に落ちている。
良寛は本音で行動し、あっけらかんと生きた。


災難に逢う時節には
災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。


は、近くの町を中心に大地震が起きた年、良寛が知人にあてた見舞い状の一節だ。

このとき、良寛は71歳。災難や死はまぬがれようとしても、できるものではない。
自然の法則に身を任せようという心境が手紙から読み取れる。

健康が悪化するのはその2年後になる。

死期のせまった良寛に対し、貞心尼は
「生死など超越したつもりなのに、いざ別れとなると悲しい」
という意昧の歌を送った。良寛はこう詠み返した。


うらを見せ

おもてを見せて

散るもみじ



もみじの葉には表があり、裏がある。
裏のない葉も、表のない葉もない。
表裏一体だからこそ、もみじの葉なのである。
人間社会での生死、是非、善悪、貧富、貴賎‥、これらもすべて表裏一体と言える。


良寛には、もう一つ、辞世の歌が残されている。


形見とて

何か残さむ

春は花

山ほととぎす

秋はもみじ葉



良寛は最愛の貞心尼に看病され、蒲団の上に坐り直し静かに亡くなったという。

1831年、74歳であった。