私はこの世が好きではありません。

私自身の人生も苦しみばかりですが、それはどうでもいいです。
私が嫌なのは、世界に目を向ければ、そこは私以上に苦しみに満ち満ちているからです。

昔から一つ疑問でした・・・悟った人はなぜ至福を得るのでしょう?
この世はこんなに悲惨が支配しているというのに・・・
悟ると、他人の苦しみというのはどう映るのでしょう?

世界のこと、他の苦しみのことなど無関心になり、眼中になくなるのでしょうか?
もしくは、欲望の無いことが至福につながるなら、他を救いたいという欲望も無くなるのでしょうか?
そもそも、存在は一つで、救うべき“他”など存在しないことを悟るからでしょうか?
それとも、この世は“空”で、苦しみに見えるものも本当は存在しないのでしょうか?
または、悟った人は神を信頼して、どのような悲惨な状況も「神のご意思だ」として納得するのでしょうか?

悟ると、いかにしてこの苦しみから逃れるのでしょうか?

自己が「唯一なるもの」と認識した時、「唯一なるものの別の側面である」他の苦しみはどのように映るのでしょうか?
同じ自己であるのに、右手が怪我しても、左足とは関係がないとでも言うのでしょうか?

私にはまだ分かりません。

 

ある人(ヒスロップ博士だったかな?)がサイババに、「どうしてこの世はこんなに苦しみに満ちているのでしょう?」と尋ねたところ、

サイババは「どこに苦しみがあるのですか?」と言い、手のひらを上に向け肩をすくめたそうです。

このサイババの言葉が私には驚きで、理解に苦しみました。

おそらく、悟った人や神様の目からは、この世は現実でなく、苦しみも幻想なのかもしれませんが、普通の人々にとっては、それは現実としか思えません。
それに、もし苦しみがないのなら、なぜサイババや聖賢は、「人や生き物を助けよ」と言うのだろうか?なぜ、「全てに奉仕せよ」というのだろうか?
神様にとっては、苦しみは幻であり、「無い」のと同じだから、この世の苦しみを取り除こうとは思わないのだろうか?

そんな疑問が湧き、ずっとその言葉の真意をつかめずにいました。

 

この疑問の完全な回答ではないですが、この疑問を解いてくれたのが、以下のマハリシの言葉でした。

 


シュリー・オーロビンドー・アーシュラムから来たと言う別の訪問者が、バガヴァーンに尋ねました。

「しかし、我々は世界で苦しみを見ます。
ある人は空腹です。それは身体的な事実です。それは彼にとって、とても現実的です。
私たちはそれを夢と呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか?」

バガヴァーン:
ジニャーナ、現実の視点からは、世界と同様に、あなたが言う苦しみは確かに夢です。
夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのを見ます。
あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、空腹で苦しんでいることに気づいた他の人たちに食事を与えます。

夢が続く限り、あなたが今、世界で見る苦しみを現実的だと思うのと同様に、その全ての苦しみは非常に現実的です。
目覚めて初めて、夢の中の苦しみが現実ではないことをあなたは発見します。
あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。
あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中、長時間、懸命に働き、疲れて、空腹で、たくさん食べたいと思います。
しかし、あなたが目覚めた時、お腹一杯でベッドから少しも動いていないことに気付きます。

しかし、だからと言って、あなたが夢にいる間に、そこであなたが感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞えると言っているのではありません。
夢の中の空腹は、夢の中の食べ物で満たされなければいけません。
夢の中で、とてもお腹が減っているとあなたが気付いた仲間たちには、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。

(ジュニャーナを得た時には、)あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混同することはないでしょう。
しかし、あなたがジニャーナの境地に達し、そうして、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることで社会奉仕をしなければなりません。

しかし、その時でさえ、私たちに言われるように、アハンカーラなしに、つまり、「私が行為者である」という感覚なしに、「私は主の道具である」と感じながら、それを行うべきです。
同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼には助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思い上がってはいけません。
そうではなく、その人の中の神を崇拝するための手段として、あなたはその人を助けなければいけません。

そのような奉仕すべても自らのためであり、他の誰のためでもありません。
あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身だけを助けているのです。

 

この会話の後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。
バガヴァーンがただちに言いました。

「母がこの歌をしょっちゅう歌っていました。
 これは今、私たちが話していた、まさにそのことを繰り返しています」。

 

(タミル語の歌)

常に意識かつ至福である
自らがどうして
どうして今まで、あたかもこれを
忘れていたかのように振る舞ったのか

摩訶不思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私の愛しい人よ
私へのあなたの恐れ!

心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?

大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗い波が深淵なる至福の海に?

言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもない、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、特性がない
分離がなく、それゆえ、恐れがない

おお、摩訶不思議、夢の中のように見える物事!

内も外も、高きも低きも、十方すべても
光の中に失われた-無限に広大で
壊れえず、支えられず、完全で穏やかな(光の中に)
純粋な意識、不変の至福

かつては遠く遥かなもの、目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜、歓喜が!

 

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サイババの言った「どこに苦しみがあるのですか?」・・・その言葉の意味・・・

私は死ぬまでに、そのことが分かる時が来るのだろうか・・・

もし、この世に苦しみがないことに気づいたら・・・もしくは、この世界と、世界の苦しみのすべてが幻だったと気づけたら・・・

その時、私の心も歓喜に包まれるでしょう・・・

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