前回、『慈経』を紹介したので、少し菜食のお話をしたいと思います。

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菜食は一応、開運法にあたります。

カルマ則では、「自分が与えたものが返って来る」 と言います。
従って、生き物たちに与えた苦しみは、いつか自分に返ってきます。
その意味で、菜食になり、生き物たちに苦痛を与えない生き方を選ぶというのは、広い意味で開運法となります。

あべさんは、よく開運として勧めていましたが、私は開運としては勧めていません・・・ハードルが高く、開運として推奨して「はい、菜食になります」と言える人は皆無だと思っているからです。

でも一方で、個人的には菜食を強く推奨したいとも思っています。
また、私は、それを開運としてではなく、動物たちのことを思って、菜食になって欲しいとも思います。

というわけで、今日は少し、菜食について思うことを述べてみたいと思います。

 

ただ、私が菜食になった話をすると、不快になる人が多いです。
それは自分が責められているような気になるからだと思います。

私は菜食を強制したりはしません。
一人ひとりが決めればいいことです。

だから、私が言うことも考えの一つとして受け取ってください。
もし不快になられた方がいたらごめんなさい。(そうなったら、それ以上は読み進めないようにしてください。)

 

私が菜食主義になったのは大学入ってすぐの頃です。
自分の意思でなりました・・・宗教やインドは関係ありません(まだ、インドや宗教に興味を持つ以前になりました)
それまでは、肉や魚ばかり食っていました(^^;

だから、別に味的には嫌いじゃないんですよ。^^;
たまに、「好き嫌いをするな」って、私に怒り出す人いますけど・・・
むしろ、味的には好きなんですね。

菜食主義になった時に、恋人や結婚や友達はあきらめました。
だって、めんどくさいでしょ!こんな人!^^

犠牲にしたものは大きいですが、それでも私はこの自分の選択に満足しています。
だから菜食は、私のコンプレックスであると同時に、誇りでもあります。
菜食になった理由は、環境面、食糧問題、飢えの原因、健康面、倫理面・・・
いろんな理由があったんですが・・・

要は、私は生き物を愛しているからですね(^^
一人がベジタリアンになれば、年間80匹の動物が屠殺されずにすみます。
私は、人にも動物たちにも優しい社会になればいいと心から願っています。

たまに「植物だって生きてるじゃないか!」ってよく言われるんですが、牛や豚の動物と、神経系のない植物とでは苦痛のレベルが違います。
皆様だって、キャベツを切るように猫の首は切れないでしょう!
植物は脳も神経もないので、意識も私たちのそれとは大きく異なります。

牛や豚が飼われる環境は劣悪です。
ほとんど身動きできません。
生後、1週間ぐらいで母親と離されます。
だいたい生後2~3年で殺されます。
殺され方も国や場所のよっていろいろですが、
多くは首を半分ちょん切られて血をぬかれます。
牛ははっきり意識があり、歩いて苦しそうにもだえます。
または、血抜きのため鉄のウインチで片足を釣るされたり、牛が倒れるまで放置されます。
(見たい方はどうぞ↓)
http://saisyoku.com/slaughter.htm

牛と人間との間に、どんなちがいがあるのだというのでしょう?

彼らにも心があり、感情があり、痛みを感じます。
彼らだって、私たちと同じく、苦しみます。

刺されたり、斬られたり、叩かれれば、彼らも私たちと同じく痛いです。
焼かれたり、煮られたり、絞められれば、苦しいです。

自分が殺される立場になったら、あなたは「どうか殺さないで」と泣いて許しを請うでしょう。

どうして自分たちは苦しむのを、または殺されるのをそれほど嫌うのに、他には何の躊躇もなく苦しみを与えれるのでしょうか?
自分や身内でなければへっちゃらでしょうか?
私には、とても正気の沙汰とは思えません。

たぶん皆様も分かっているのでしょう・・・
本当は殺して食べるということが残酷であるということに。
でも、みんな気づかない振りをして生きている・・・
そのことに気づいてしまえば、おいしいものを食べるという快楽が奪われるから。
だから何とか理由を付けて正当化したがります。
自然の摂理とか、弱肉強食とか、別の種だからとかの言葉で、自己を偽り、正当化して生きています。
だから、それぐらいは仕方がないと、自分に言い聞かせています。

でも種が違えば殺したり、虐げていいのでしょうか?・・・だったら、人種差別は正しいのでしょう。
動物は能力が劣るから、殺してもかまわないのでしょうか?・・・だったら、身体障害者は殺してもかまわないでしょう。
弱肉強食、適者生存、力が劣るものは、殺されるのも仕方がないのでしょうか?・・・だったら、戦争も虐殺もいじめも正しいと認めるべきでしょう。

 

人は、ナチスやポルポトのやったホロコースト(大量虐殺)が悪いと非難します。
でも、そんなものは家畜場にいけば、毎日行われています。

私たちの行為が、ポルポトやナチと何が違うというのでしょう?

そして、肉を食べると言うことは、それに加担している一人だということです。

 

その昔、白人は黒人を、自分たちより劣った人間として見て、奴隷として使いました。
ある時は、インディアンを野蛮な種として殺しました。
今、動物たちは人間たちより劣った生き物として見られ、虐げられ殺されています。
今の私たちも、やってることは同じじゃないでしょうか?

生まれて数日で母親と引き離され、薄暗い部屋につながれて、楽しみや喜びなど一つも感じることのないまま機械にはさまれ、首を切られて殺されていく・・・

それが、もし自分だったら・・・
もし自分の子だったら・・・・
もし恋人・妻・夫だったら・・・
もし自分の親・兄弟だったら・・・・
もし自分のペットだったら・・・

同じことが、自分や子供、親類、恋人に行われれば、泣き叫び、命乞いをし、溢れんばかりの涙を流して助けを求めるくせに、それほど自分にとって嫌うことを、牛やブタには平気で行うのでしょうか?
そんなことを味あわせてまで得るほど価値のあることなど、あるのでしょうか?

私たちも彼らも、同じ地球に生を受けた仲間です。
彼らも、私たちと同じ、痛みや苦しみを感じる生き物です。
私たちと同じように、一生懸命生きています。
生まれてきたことを祝福されるべき、偉大な仲間たちです!

いったい牛や豚が、殺されるほどの何をしたのでしょう?
相手がか弱い動物たちなら、殺したり苦しめることは平気ですか?

苦しみの上に築かれる幸せとは、いったいどんな幸せなのでしょう?
犠牲の上に成り立つ喜びとは、いったいどんな喜びでしょう?
皆さんは、そんな喜びや幸せがほしいのでしょうか?

“おいしさ”という価値と、彼らの苦しみを天秤に載せた時、本当に“おいしさ”という欲求の方が重いのでしょうか?
生命とは、そんなに軽いのでしょうか?
本当に、“おいしさ”などと言うそんなちっぽけなものが、多くの動物たちの苦痛と死に見合うものでしょうか?

ハンバーグやステーキ・・・肉や魚を使った料理を我慢するだけで、動物たちの想像を絶するような苦しみが救われる。
たった、それだけの我慢だけでです!

肉を食べたら親・兄弟・恋人が死ぬと言われれば、別に肉を食べないことなんて簡単でしょう・・・
肉を食べたら、自分が殺されると言われれば、絶対食べないでしょう・・・

自分の中の、ほんの少しの喜びを放棄するだけで、大きな苦しみを回避できる・・・
それは、おいしいものを食べられること以上の喜びじゃあないのかな?

そんなことを思います。

 

人間は、他の動物に比べればあらゆる点で幸せです。
数ある中の、たった一つの幸せぐらい、動物たちに分けてあげればいいのではないでしょうか?

同じ地球に生まれた仲間として・・・

 

『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしに対してしたのである』

-マタイ25章31

 

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