メルマガからの転載です。

書いた時は全然知らなかったのですが、うちゃさんのところと、内容が少しかぶっていました!^^;

なんかのシンクロですかね・・・^^;
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今日は、精神性である9室と禅を絡めてお話します。(以前、ちゃびびさんと議論した内容にもかかわります。)

おそらく、皆様は9室が好きでしょう!^^・・・幸運のトリコーナ最強のハウスです!
宗教や精神性というのは、ハウスでいうなら9室です・・・法であり、ルールであり、善であり、正しさです。
従って、9室が強い人は、一般的には、精神性に富み、善良であり、道徳的で、宗教的な人になります。
しかし、9室の強い人は、模範的で慈善家が多いのですが、ある意味、自分の正義のために人と争う人も多いです。
自分の基準が高いから、相手の愚かしい行為が気になり、相手にも高いレベルを要求してしまうのですね。
精神性の高い人に良く見られると思います。

9室はルール・正しさです・・・9室の強い人が争いを生み出すのは、自分のルール・正しさを曲げないからです。

例えば、9室の権化とも言うべき宗教は、お互い争っていますね。^^;
絶対に、自分たちの主張を曲げません。
曲げないだけでなく、自分たちの正しさを押し付けたりもします。
昔は、宗教の名のもとに、星の数ほどの戦争が起き、多くの人が殺されました。(今でも、ある意味、タリバンやイスラム国など、宗教に関した争いはあります)
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私は禅の教えが好きなのですが、禅では「分別するな」って教えてるんですね。
宗教・道徳一般には「善悪の分別をつけなさい」って教えますけど、禅はそうじゃなくて、「分別するな」です・・・
ちょっと変わってますよね!^^

人はまず、「善」・「正しさ」を学び、身に着けないといけないとされます。
そして、禅では、それを身に着けた後は、最終的にその善を離れなければならないとされます。

どうやら、私たちは、究極的には善と悪の両方を超越しなければならないようです。
善や理想、正しさの観念を持つ限り、悪を見ざるを得ないからです。
私たちは、善良な人間、正しい人間になろうと努力しますが、自分が正しく、かつ善良になると、悪や間違ったことを許せなくなったり、人を裁くようになるからです。
その正しさが、人を分かち、非難させ、争いのもとになったりします。

私たちが持っているいわゆる「善」というのも観念であり、色眼鏡にすぎないとされます。
そういった善と悪に寄らない心を、あるがままの認識、または、仏教では中庸とも表現され、それを目指します。

仏典にはこうあります。
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『 何が正しく、何が間違っているかなどと

もはや考えない、乱れざる心

正誤の裁き、善悪のはからいを超えた心は

見守り、そして悟る 』
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―ダンマパダ(法句経)

 

また、サイババはこう言います。
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『 邪悪な性質と善良な性質が消え去り、

あらゆる属性を脱したとき、

人ははじめて平安を得る。

・・・だから「わたし」・「わたしのもの」という幻影を捨て、

不動の平安を享受し、いつも心を穏やかにしていなさい 』
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―サティア・サイババ 『真実のサイババ』

 

私の好きな「信心銘」も同じような感じのことを言っていますね。(※今日の言葉で取り上げます)

また、近代聖者のヴィヴェーカーナンダも同じように、「悪に抵抗してはいけない」と言っています。
彼は、「人は正しさを学ぶが、正しい行いが出来るようになったら、次は悪に抵抗しないことを学びなさい」みたいなことを言っていました。

また、老子は仁義や忠孝ではなく、無為自然を説きました・・・

 

私も偉そうなことを書いていますが、まだまだ怒りは大きいし、人に対して不満や裁きをもってばかりです・・・^^;

私の日常の中にどのような裁きや判断があるか観察していると、知らず知らずのうちに、いつも何かしら判断して、常に人を裁いています。
これらは、ほとんど潜在意識に近いレベルであり、よほど気を付けてないと、その心にも気づかないですが・・・

その心に気づいてそれを捨てるとき・・・これらの裁きが治まるとき・・・善悪の判断をせずに人を見るとき・・・
その人に対して何の憎しみも嫌悪も持たず、受容のみが存在するような気がします。

今まで硬くて、突っ張っていた心が、やわらかくなったような、融けたような、そんな思いになり、そのとき、ちょっと不思議な、いい気持ちになれるのを感じます。

それが、もしかしたら「寛容な心」というのかもしれません。
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前回の「カウンセリングについて」でも、取り上げましたが、静かで判断のない心が重要ではないかと思います・・・善悪のどちらか一方にとどまる限り、真理や本質というものに到達することはない気がします。
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私たちの心の中では、常に善と悪が飽くなき戦いを繰り広げています。
この戦いは、どちらかがどちらかを完全に征服することはありません。
なぜなら、それが相対的という意味だからです。

どちらかが征服するのではなく、その戦い自体が止むところに・・・善悪を超越したところに、平安があるような気がします。
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「信心銘」

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大いなる道は難しくない

選り好みをせず

愛することも憎むこともなければ

全てははっきりと明らかになる

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だがわずかでも分別をすれば

天と地は遙かに隔たる

真理を実現したければ

賛成や反対の見解を抱いてはならない

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一つを嫌い一つを好むことは

心の病だ

物事の本質を理解しないとき

心の平和は徒に乱される

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道は大いなる虚空のように完全で

欠けたところも、余分なところもない

ただ取捨選択するために

物事の本質を見極められないだけだ

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外界に巻き込まれてはならない

空という概念にもとらわれてはならない

一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい

そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る

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心の活動を止めようと努力しても

その努力がさらなる活動をもたらす

対極の一方を選んでとどまるかぎり

一なるものを知ることはできない

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一なるものを知らなければ

静動、正否ともにその自由な働きを失う

物事の現実性を否定すればその現実性を失い

空の概念にしがみつけば空の原理を見失う

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話せば話すほど、考えれば考えるほど

ますます真理から遠ざかるばかり

話すことも考えることもやめなさい

そうすれば知り得ないものは何もない

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根源に帰すれば本質を会得する

だが現れを追いかければ源を見失ってしまう

一瞬にして悟れば

現れも空も、ともに超越される

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空の世界に起こる変転変化を

無知ゆえに人は実在と呼ぶ

真理を追い求めてはならない

ただ相対的な見方をやめなさい

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二元的な分別にとらわれて

現れを追ってはならない

わずかでも是非を区別すれば

心の本質は失われてしまう

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全ての二元対立は一元から生じるが

その一元さえ執着してはならない

心が生じなければ

世界が背くことはない

何も背くことがなければ

すべてはあるがままだ

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分別心が起こらなければ、心は存在をやめる

主体である心が消え去れば、対象も消え去るように

想いの対象が消えれば、思う主体も消え去る

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物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる

心(主体)は物事(対象)が在るためにそのように在る

その二つの相関関係を理解しなさい

その根底にある実在は一つの空なのだ

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この空は相対を排斥せず

すべての存在を差別のまま包みこむ

粗雑と精妙を区別せずにいなさい

そうすれば偏見に陥ることはない

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大いなる道に生きるとは

易しくも難しくもない

だが視野の狭い人は恐れ疑い

急げば急ぐほど遅れてしまう

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真理に執着すれば度を失い

悟りという概念にさえ囚われて道に迷う

すべてを放てば自然となり

来ることも去ることもなくなる

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あるがままにまかせなさい

そうすれば悠々自適に生きていける

想いを働かせれば、真理は隠され

想いを止めれば、暗く澱んでしまう

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有念も無念も徒に精神を疲れさすばかり

そのどちらも好んでも避けてもならない

一なるものを求めるなら

感覚や思考さえ嫌ってはならない

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感覚や思考を完全に受け入れることは

真の悟りと同じなのだ

賢者は目的を求めて努力しない

愚者は目的を求めるために己を縛る

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法(存在、現象)は一つであって多数ではない

区別は無知の愛着から生じる

心をもって真理を求めることは

最大の過ちだ

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迷えば安心や不安が生じ

悟れば好きも嫌いもなくなる

すべての二元対立は

自己中心の分別から生じる

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それらは夢まぼろし、空中の花

つかもうとするだけ愚かなこと

得も失も、是も非も

すべて一度に放り出してしまえ

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もし心眼が眠らなければ

すべての夢は自然に止む

心が分別をしなければ

存在は一なるものとしてあるがままにある

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この深遠な神秘を理解すれば

すべてのもつれは解きほどかれる

千差万別の存在が平等に見られれば

あるがままの自然の姿に帰りつく

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この原因も関係性もない状態では

比較も類比もできない

動を静と見なし、静の中に動を見なさい

すると動も静も消え去る

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二元性が存在しなければ

一なるものも在りえない

この究極の境地には

どんな法も描写もあてはまらない

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道と一つになった平等な心に

自己中心的な計らいはない

疑いも恐れも消え

真理を信頼して生きるのだ

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束縛を一撃で絶ち切り自由になれば

印象はとどまらず、記憶すべきこともない

すべては空、明らかにして自ずと輝き

心を用いることもない

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想念、感情、知識で推し量れない

このあるがままの世界には

自己もなければ他己もない

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この実在と調和の内にあるには

ただ「不二」と言うがいい

この「不二」の中ですべては等しく

すべては包みこまれる

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世界中の賢者たちは

この根源的真理を会得している

真理は時を超え

絶対なる今の一念は、そのままで永遠なのだ

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ここも空、そこも空

だが無限の宇宙は常にあなたの目の前に在る

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極大と極小は異ならない

境界を忘れ去り、区別を消し去れば

存在も非存在も同じこと

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そうでなければ真理とはいえず

守るべき価値もない

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すべては一つ

一つはすべてだ

このように悟るなら

不完全を思い煩うこともない

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この真理を信頼し生きることが不二の道である

不二と信頼は一体なのだから

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道は言語に絶している

そこには昨日も明日も今日もないのだ

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三祖 僧燦鑑智禅師「信心銘」

 


.追記

コメント用・追記)

 

 

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