【運命と自由意思-23】:9室と善悪
メルマガからの転載です。
書いた時は全然知らなかったのですが、うちゃさんのところと、内容が少しかぶっていました!^^;
なんかのシンクロですかね・・・^^;
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今日は、精神性である9室と禅を絡めてお話します。(以前、ちゃ
おそらく、皆様は9室が好きでしょう!^^・・・幸運のトリコーナ最強のハウスです!
宗教や精神性というのは、ハウスでいうなら9室です・・・法であり、ルールであり、善であり、正しさです。
従って、9室が強い人は、一般的には、精神性に富み、善良であり、道徳的で、宗教的な人になります。
しかし、9室の強い人は、模範的で慈善家が多いのですが、ある意味、自分の正義のために人と争う人も多いです。
自分の基準が高いから、相手の愚かしい行為が気になり、相手にも高いレベルを要求してしまうのですね。
精神性の高い人に良く見られると思います。
9室はルール・正しさです・・・9室の強い人が争いを生み出すのは、自分のルール・正しさを曲げないからです。
例えば、9室の権化とも言うべき宗教は、お互い争っていますね。^^;
絶対に、自分たちの主張を曲げません。
曲げないだけでなく、自分たちの正しさを押し付けたりもします。
昔は、宗教の名のもとに、星の数ほどの戦争が起き、多くの人が殺されました。(今でも、ある意味、タリバンやイスラム国など、宗教に関した争いはあります)
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私は禅の教えが好きなのですが、禅では「分別するな」って教えてるんですね。
宗教・道徳一般には「善悪の分別をつけなさい」って教えますけど、禅はそうじゃなくて、「分別するな」です・・・
ちょっと変わってますよね!^^
人はまず、「善」・「正しさ」を学び、身に着けないといけないとされます。
そして、禅では、それを身に着けた後は、最終的にその善を離れなければならないとされます。
どうやら、私たちは、究極的には善と悪の両方を超越しなければならないようです。
善や理想、正しさの観念を持つ限り、悪を見ざるを得ないからです。
私たちは、善良な人間、正しい人間になろうと努力しますが、自分が正しく、かつ善良になると、悪や間違ったことを許せなくなったり、人を裁くようになるからです。
その正しさが、人を分かち、非難させ、争いのもとになったりします。
私たちが持っているいわゆる「善」というのも観念であり、色眼鏡にすぎないとされます。
そういった善と悪に寄らない心を、あるがままの認識、または、仏教では中庸とも表現され、それを目指します。
仏典にはこうあります。
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『 何が正しく、何が間違っているかなどと
もはや考えない、乱れざる心
正誤の裁き、善悪のはからいを超えた心は
見守り、そして悟る 』
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―ダンマパダ(法句経)
また、サイババはこう言います。
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『 邪悪な性質と善良な性質が消え去り、
あらゆる属性を脱したとき、
人ははじめて平安を得る。
・・・だから「わたし」・「わたしのもの」という幻影を捨て、
不動の平安を享受し、いつも心を穏やかにしていなさい 』
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―サティア・サイババ 『真実のサイババ』
私の好きな「信心銘」も同じような感じのことを言っていますね。(※今日の言葉で取り上げます)
また、近代聖者のヴィヴェーカーナンダも同じように、「悪に抵抗してはいけない」と言っています。
彼は、「人は正しさを学ぶが、正しい行いが出来るようになったら、次は悪に抵抗しないことを学びなさい」みたいなことを言っていました。
また、老子は仁義や忠孝ではなく、無為自然を説きました・・・
私も偉そうなことを書いていますが、まだまだ怒りは大きいし、人に対して不満や裁きをもってばかりです・・・^^;
私の日常の中にどのような裁きや判断があるか観察していると、知らず知らずのうちに、いつも何かしら判断して、常に人を裁いています。
これらは、ほとんど潜在意識に近いレベルであり、よほど気を付けてないと、その心にも気づかないですが・・・
その心に気づいてそれを捨てるとき・・・これらの裁きが治まるとき・・・善悪の判断をせずに人を見るとき・・・
その人に対して何の憎しみも嫌悪も持たず、受容のみが存在するような気がします。
今まで硬くて、突っ張っていた心が、やわらかくなったような、融けたような、そんな思いになり、そのとき、ちょっと不思議な、いい気持ちになれるのを感じます。
それが、もしかしたら「寛容な心」というのかもしれません。
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前回の「カウンセリングについて」でも、取り上げましたが、静かで判断のない心が重要ではないかと思います・・・善悪のどちらか一方にとどまる限り、真理や本質というものに到達することはない気がします。
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私たちの心の中では、常に善と悪が飽くなき戦いを繰り広げています。
この戦いは、どちらかがどちらかを完全に征服することはありません。
なぜなら、それが相対的という意味だからです。
どちらかが征服するのではなく、その戦い自体が止むところに・・・善悪を超越したところに、平安があるような気がします。
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「信心銘」
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大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
全てははっきりと明らかになる
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だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない
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一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される
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道は大いなる虚空のように完全で
欠けたところも、余分なところもない
ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ
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外界に巻き込まれてはならない
空という概念にもとらわれてはならない
一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る
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心の活動を止めようと努力しても
その努力がさらなる活動をもたらす
対極の一方を選んでとどまるかぎり
一なるものを知ることはできない
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一なるものを知らなければ
静動、正否ともにその自由な働きを失う
物事の現実性を否定すればその現実性を失い
空の概念にしがみつけば空の原理を見失う
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話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものは何もない
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根源に帰すれば本質を会得する
だが現れを追いかければ源を見失ってしまう
一瞬にして悟れば
現れも空も、ともに超越される
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空の世界に起こる変転変化を
無知ゆえに人は実在と呼ぶ
真理を追い求めてはならない
ただ相対的な見方をやめなさい
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二元的な分別にとらわれて
現れを追ってはならない
わずかでも是非を区別すれば
心の本質は失われてしまう
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全ての二元対立は一元から生じるが
その一元さえ執着してはならない
心が生じなければ
世界が背くことはない
何も背くことがなければ
すべてはあるがままだ
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分別心が起こらなければ、心は存在をやめる
主体である心が消え去れば、対象も消え去るように
想いの対象が消えれば、思う主体も消え去る
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物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる
心(主体)は物事(対象)が在るためにそのように在る
その二つの相関関係を理解しなさい
その根底にある実在は一つの空なのだ
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この空は相対を排斥せず
すべての存在を差別のまま包みこむ
粗雑と精妙を区別せずにいなさい
そうすれば偏見に陥ることはない
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大いなる道に生きるとは
易しくも難しくもない
だが視野の狭い人は恐れ疑い
急げば急ぐほど遅れてしまう
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真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う
すべてを放てば自然となり
来ることも去ることもなくなる
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あるがままにまかせなさい
そうすれば悠々自適に生きていける
想いを働かせれば、真理は隠され
想いを止めれば、暗く澱んでしまう
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有念も無念も徒に精神を疲れさすばかり
そのどちらも好んでも避けてもならない
一なるものを求めるなら
感覚や思考さえ嫌ってはならない
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感覚や思考を完全に受け入れることは
真の悟りと同じなのだ
賢者は目的を求めて努力しない
愚者は目的を求めるために己を縛る
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法(存在、現象)は一つであって多数ではない
区別は無知の愛着から生じる
心をもって真理を求めることは
最大の過ちだ
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迷えば安心や不安が生じ
悟れば好きも嫌いもなくなる
すべての二元対立は
自己中心の分別から生じる
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それらは夢まぼろし、空中の花
つかもうとするだけ愚かなこと
得も失も、是も非も
すべて一度に放り出してしまえ
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もし心眼が眠らなければ
すべての夢は自然に止む
心が分別をしなければ
存在は一なるものとしてあるがままにある
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この深遠な神秘を理解すれば
すべてのもつれは解きほどかれる
千差万別の存在が平等に見られれば
あるがままの自然の姿に帰りつく
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この原因も関係性もない状態では
比較も類比もできない
動を静と見なし、静の中に動を見なさい
すると動も静も消え去る
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二元性が存在しなければ
一なるものも在りえない
この究極の境地には
どんな法も描写もあてはまらない
.
道と一つになった平等な心に
自己中心的な計らいはない
疑いも恐れも消え
真理を信頼して生きるのだ
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束縛を一撃で絶ち切り自由になれば
印象はとどまらず、記憶すべきこともない
すべては空、明らかにして自ずと輝き
心を用いることもない
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想念、感情、知識で推し量れない
このあるがままの世界には
自己もなければ他己もない
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この実在と調和の内にあるには
ただ「不二」と言うがいい
この「不二」の中ですべては等しく
すべては包みこまれる
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世界中の賢者たちは
この根源的真理を会得している
真理は時を超え
絶対なる今の一念は、そのままで永遠なのだ
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ここも空、そこも空
だが無限の宇宙は常にあなたの目の前に在る
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極大と極小は異ならない
境界を忘れ去り、区別を消し去れば
存在も非存在も同じこと
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そうでなければ真理とはいえず
守るべき価値もない
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すべては一つ
一つはすべてだ
このように悟るなら
不完全を思い煩うこともない
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この真理を信頼し生きることが不二の道である
不二と信頼は一体なのだから
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道は言語に絶している
そこには昨日も明日も今日もないのだ
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三祖 僧燦鑑智禅師「信心銘」
.追記
コメント用・追記)
関連記事:
- 【運命と自由意思-22】:将棋と最善手
- 【運命と自由意志⑤】:カルマの法則の帰結
- 【運命と自由意思④】:科学と自由意志
- 【運命と自由意思-21】:被害者意識からの解放
- 【運命と自由意志⑥】:運命と自由意志
古い記事に投稿失礼します;
ISOPさんのブログを読んでは、いつも考えさせられることばかりです。
特に、9室のことについては、本当に。
自分自身、9室惑星集中のせいか、いつも善悪にとらわれて生きてきました。
例えばですが、赤信号一つにしても、なぜみんな平気で渡るのか?
車が来なければ、渡っていいものなのか?
という風に考えてしまいます。
私が赤信号を待っていると、周りの人間はなんだかソワソワしながら
あぁ、本当は行きたいのに、あの人が待っているから
従わなきゃならないじゃないという様子のときがあります。
そのうち待ちきれなくなった人が、私のほうを見下すようにしながら
赤信号でも渡るという場面に何回も出くわしています。
なぜ、このような簡単なルールでさえ守れないのだろう?
貴方たちは、一体なんなのだ?・・・と心の中でいつもさばいてしまうのです。
でも、こうした考え方が行き過ぎて、仕事は続かず、人を遠ざけ
随分と時間がたってしまいました。
時々言われるのは、お坊ちゃんとか、温室育ち。
私には、9室のラッキーという意味が解せないです。
出来ることならば、善悪の彼岸へ渡りたいと、そう思っています。
私は正しい、あなた方は間違っている。
そういう考え方や、正論で相手を論破しても、人は離れていくだけなのに
やめられない自分が非常にもどかしいです。
年を経るにつれて、禅の上澄みだけでも味わうことが出来たなら
幸いかなと、そう思っております。
駄文で失礼いたしました。
発芽玄米さん
こんにちはm(__)m
>私は正しい、あなた方は間違っている。
>そういう考え方や、正論で相手を論破しても、人は離れていくだけなのに
>やめられない自分が非常にもどかしいです。
いや~、私も同じです^^
人の行為を見て、ムカムカしてばかりです!^^
人はこの世に非難するゲームをしに来ているように見えますね。
なかなかこれを脱することは難しいです。
こんな風刺画があります。(上記参照)
この絵は、いったい、どないせいっていうのでしょうね?
何かしら、人はいちゃもんをつけたがるのですね(^^;
怒る人、腹を立てる人、叱りつける人、怒鳴る人の共通点は・・・
自分は正しいんだと強く思っているところです。
でも、この世界に、普遍的な正しいことはありません。
この世には、悲惨なこと、腹の立つことが多いでしょう。
この世界を変えることはできません。
でも、その人の心が平和になれば・・・
その人にとっての世界は平和になるのでしょう。
ななちゃんという方が、こんなことを言っています。
———
*自分を含めだれも責めるべき人などいないと気づいたとき、目覚めが
はじまります。
*心の中にいだく考え方を変えることによって、人生を変えることができます。
*怒りをいくら正当化しても、決して心のやすらぎは訪れません。
*わたしたちは、人生の多くの時間を使って「とがめるゲーム」をしています。
*頭の働きが停止している時、わたしたちはもっとも目覚めた状態にあります。
*無条件の愛は価値判断をせず、決してとがめることもしません。
*人のために脚本を書いてあげようとすると、その関係は失敗に終わります。
みんなそれぞれ違った脚本なのですから。
*人を裁くことをやめると、ゆるしの必要はなくなります。
————–
>私には、9室のラッキーという意味が解せないです。
>出来ることならば、善悪の彼岸へ渡りたいと、そう思っています。
二元性を超えるのは難しいです・・・
悟りの境地に至る最高の方法は、自分の善悪や評価という色眼鏡を取り去り、 ニュートラルになることのようですね。
サイババはこんなことをおっしゃっています。
—————-
主は自ら宣言しました。
「アルジュナ!
この世のすべては私から発し、
すべてが私の中に存在しているが、
私はすべてに依存していない。
覚えておきなさい、
私はすべてに執着がない」と。
ここに、二つの視点があります
――ジーヴィ〔個別の魂〕の視点と
主の視点です。
ジーヴィには善と悪の二元的経験があり、
主にはまったく二元性がありません。
すべてが神であるとき、
神が万物の内なるアートマであるとき、
どうして一つは善でもう一つは悪
という二つがあり得るでしょう?
― サティヤ サイババ
お久しぶりです。
丁寧な返信ありがとうございました;
返信遅くなり申し訳ありません。
散々、書きなぐってしまい酷いことをしたなと
反省したと同時に、他者に対して依存してしまっていることに、ガッカリしていました。
(すぐに謝罪のコメントを追記しようかとも考えましたが、それも却って迷惑かなと
控えていました)
人の数だけ見方があれば、その数だけ善悪があって・・・。
難しいですね。
人生の終わりのほうにケートゥ期があるので
その時に、あぁ、あれはこういうことだったのかな?と
なんとなくでも感じ取れたらいいと思っています。