【菜食主義】:京都のベジタリアン料理店 まとめ
ベジタリアンになりたいけど、「美味しいものが食べられない」という理由で躊躇している人は結構多いと思います。
そういう人のために、出来るだけスムーズに移行できるように、お役立ち情報を配信していこうと思います。
まずは、ベジタリアンのレストランですね!
ベジにもおいしい料理はいっぱいあるのですよ!^^
(※アイキャッチ画像は Vegans Cafe & Restaurantの炭火厚揚げ丼)
というわけで、ほとんど自分のためですが・・・京都のベジタリアン・レストランまたはカフェをまとめました(^^;
ベジタリアンで京都在住、または旅行に来る方は、ご参考にしてください。
すぐに位置情報が分かるように、下記に地図を作ってみました。
以下のお店の近場に住んでいる人は、行ってみてください。
- 赤丸は、ベジ・ヴィーガン専門店。またはベジ料理がほとんど。
- 青丸は、肉・魚の料理とヴェジの料理の両方がある店
- 紫丸はどちらか不明
です。
gomacro Salon(ゴマクロサロン)山田製油
ゴマを使ったお料理のレストラン・弁当
住所:京都市中京区神明町67-3 (御池新町通り南東角)
http://www.gomacro.jp/
豆乳ラーメン専門店「豆禅」
豆乳のベジラーメン。出汁もベジ対応。細麺はつなぎに卵を使用。
住所:京都府京都市左京区下鴨東高木町 左京区下鴨東高木町13-4
https://www.mamezen.com/
MATSUONTOKO
メニューは豊富。カレー、ハンバーグ、ピザ、パスタ、ハンバーガー・・・すべてヴィーガン料理。
住所:京都市中京区新京極通四条上ル中之町538-6
http://matsuontoko.net/
菜食庵 Padma
精進料理系。
住所:京都市左京区吉田牛ノ宮町25-12
http://padmazenfood.com/
Falafel Gargen(ファラフェル・ガーデン)
めずらしいイスラエル料理。メニューはベジ・ノンベジ半々ぐらい。
住所:京都府京都市左京区田中上柳町15-2
http://www.falafelgarden.com/index2.html
Sunny Place
完全ヴィーガン料理。カツ、ハンバーグ、から揚げ、ハンバーガー、フライなどあり。
住所:京都市左京区鞠小路通今出川上ル
http://sunnyplace.okoshi-yasu.net/aboutus.html
スジャータ
和食にカレー各種、まてん麺など。
住所:京都市左京区田中門前町96-2
http://www.sujata-cafe.com/
Vege Cafe & Dining TOSCA トスカ
住所:京都市左京区北白川追分町67-7
http://tosca-kyoto.com/
morpho cafe
住所:京都市上京区西堀川通中立売下る皀莢町309
http://www.morphocafe.com/
mokumokutei cafe & foods 京都店
住所:京都府京都市中京区伊勢屋町351
http://www.mumokuteki.com/cafe/
Vegans Cafe & Restaurant
メニュー豊富なヴィーガンレストラン。野菜カレー、ピタ系、ドリア系など。炭火厚揚げ丼は評判。
住所:京都市伏見区深草西浦町4丁目88
http://www.veganscafe.com/
CHOICE
オーガニック、グルテンフリー。カレーやハンバーガー、リゾットやパスタ、スウィーツ系
住所:京都市東山区大橋町89-1
http://choice-hs.net/
壺沙-cosha-大徳寺近くのごはん屋さん
穀物菜食ごはん
住所:京都市北区紫竹西高縄町10-1
http://www.cosha.me/
musubi-cafe
すべて菜食ではなさそう。ランチ、ヒヨコ豆のカレー、野菜トマトスパゲティ、ベジタコライスなど。
住所:嵐山店 住所:京都府京都市西京区嵐山西一川町1-8
住所:祇園鴨川店 住所:京都市東山区四条川端下ル宮川筋1-234
http://www.musubi-cafe.jp/
ヴィーガンレストラン LITTLE HEVEN
100%ヴィーガン。予約制。多国籍料理。本格的でお洒落な感じ。
住所:京都市右京区嵯峨野開町8-29
http://ikuranet.chu.jp/heaven/index.html
フランス料理 bistro la fourchette(ビストロ・ラ・フルシェット)
食材は野菜のみ。ベジフレンチ。予約制。
住所:京都市中京区 押小路通両替町西入ル金吹町460住岡ビル1F
http://www.la-fourchette.jp/
こうそカフェ85
酵素を使ったお料理。酵素ランチ、酵素どんぶり、発酵玄米カレー、豆乳など。
住所:京都市中京区釜座丸太町下る桝屋町164-1
http://85cafe.jimdo.com/
コスメキッチンカフェ 京都CUBE店
住所:オーガニックやナチュラルフード。すべてヴィーガン対応かは不明です。スパイシーヴィーガンカレーあり。
京都市下京区烏丸通塩小路下ル東塩小路町901 京都駅ビルB2F
http://cosmekitchen.jp/store_list/cosme-kitchen-cafe-%E4%BA%AC%E9%83%BDcube%E5%BA%97/
http://www.thecube.co.jp/shop/107
カフェ・パラン Cafe Phalam
住所:肉料理もありますが、ベジ料理もあり。
京都市中京区西ノ京北聖町24新二条ビル 1F
http://www.phalam.jp/index.html
ベグアウト Veg Out -vegan cafe
ベジタリアン・ビーガン料理 · カフェ
住所:京都市下京区七条通加茂川筋西入ル稲荷町448 鴨川ビル1F
七条大橋西詰
http://vegout.jp
https://www.facebook.com/vegout.kyoto
cosy cafe
ヨガスタジオ内に併設されたベジカフェ。メニューは少なめ。15:00に閉店。
住所:京都市中京区天性寺前町532 北原ビル2FTAMISA三条寺町スタジオ内
https://tamisa-yoga.com/cafe-shop
オーガニック イタリアン ダ・マエダ
肉料理もあるが、ヴィーガン、マクロビオティックメニューもあり。
住所:京都市上京区千本通り中立売上ル玉屋町36
http://dp47104697.lolipop.jp/damaedamain.html
ダ・マエダ姉妹店 オーガニックハウスサルーテ
住所:京都市下京区東塩小路町600-31
http://da-maeda.shop-pro.jp/?tid=8&mode=f12
精進料理 阿じろ
妙心寺御用達の精進料理
住所:京都市右京区花園寺の前町28-3
http://www.ajiro-s.co.jp/
インヤン・フラワー・カフェ The Yin-Yang Flower Cafe
ヴィーガンの定食、カレー、サンドイッチなど
住所:京都市右京区太秦御所ノ内町2-39
http://yin-yang-flower.com/
京都大学生活協同組合(食堂)
ベジカレー、ベジラーメン、ベジ唐揚げ、他にも野菜のてんぷらなど野菜料理各種あり
住所:各京都大学キャンパス内
http://www.s-coop.net/shop_guide/002266.php
閑臥庵(カンガアン)
京普茶料理(高級精進料理・薬膳料理)。値段も高め(5000~15000円)。
住所:京都市北区烏丸通鞍馬口東入278
http://kangaan.jp/kyofutya.html
菜食レストランQUIQUI
日替わりプレート、車麩シチュー、本日の丼、本日のパスタ。
住所:京都市西京区大原野灰方町172
https://rest-quiqui.jimdo.com/
http://profile.ameba.jp/rest-quiqui/
野菜ダイニング 薬師
住所:京都市中京区河原町通り三条下る大黒町42番3 山新ビル三階
肉料理もあり。コースでベジタリアン用がある。
https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260201/26022137/
黄檗普茶料理総本家 白雲庵
普茶料理(精進料理)の老舗
住所:京都府宇治市五ヶ庄西浦30
http://www.hakuunan.com/
大徳寺一久
大徳寺精進料理・大徳寺納豆
住所:京都市北区紫野大徳寺前20
http://www.daitokuji-ikkyu.jp/
CAFE PROVERBS [15:17]
サンドウィッチ各種、カレー各種、豆腐料理やベジ唐揚げ、ベジラーメン、ベジマーボー豆腐、ベジ餃子などメニューは豊富。ただ、トップ画面からメニューに行けないので注意。
住所:京都市左京区田中門前町28-20 ドムス百万遍3F
http://www.proverbs1517.com/
(メニュー)http://www.proverbs1517.com/menu/
びお亭
住所:京都府 京都市中京区 三条通東洞院西入ル梅忠町28 M&Iビル2F
ちなみに、上記にも載せましたが、京都大学生協の食堂はベジ料理が多いです。
おそらく、留学生が多いためでしょう。
ちなみに私は、毎日、昼・夜はこの京都大学の学食で食べています。(会社がキャンパス内にある)
また、上記の地図には載せていませんが、モスバーガーはベジのハンバーガーがあります。
http://gigazine.net/news/20150519-mos-soy-patty-burger/
http://www.mos.co.jp/company/pr_pdf/pr_150423_1.pdf
ソイパティというのが、大豆のお肉になります。
何回か食べましたが、結構おいしいです!^^
大阪のベジ料理店情報(地図)も、そのうち作ろうと思いますm(__)m
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非常に有難い情報です。
まず、豆乳ラーメンに挑戦ですね!
豆乳ラーメン、おいしそうですよね~!!^^
私、豆乳鍋の最後にはうどんを入れるんですが、ラーメンも合いそうですね!
今度、センターのみんなで食べに行きましょう。
食べログやぐるナビの評価・口コミも好感度高いです!
https://tabelog.com/kyoto/A2601/A260503/26013352/
https://r.gnavi.co.jp/h2cfj3dm0000/
ちなみに、滋賀県には「なぎさWARMS(ウォームズ)」というベジのお店があるようです。
住所:大津市打出浜15-5
電話:077-526-8220
http://nagisanoterrace.jp/warms/
https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25003906/
行ってみてはいかがですか?^^
新たな情報ありがとうございます。
近くに行く機会あれば、立ち寄ってみます!
久しく食べていない懐かしいラーメンの味。
しかも、スープが豆乳とは!
お陰さまで、今後の楽しみが増えました。
(そして、お腹がすいてきました)
お疲れ様ですm(__)m
ベジタリアン………気になりますな〜(^^;;
私は甘い物とか美味しい物が好きなので、ベジタリアンになるのは厳しいかと(^^;;(笑)
さやかは身内ですから、ちょっと厳しいことを言いましょう。
さやかの言っていることを言い換えれば、「自分の欲や楽しみのためなら、動物が殺されることだってかまわない」ということです。
この世は、与えたものが返ってくるというシンプルな法則があります。
これを、因果応報とか、カルマの法則と言います。
この世は、自分の利益・欲望を優先し、他を苦しめておいて、自分だけ幸せになることはあり得ません。
そんな虫のいい法則はどこにもありません。
なぜなら、与えた苦しみは、必ずその人に返ってくるのですから。
さやかの今の苦しみだって、もとを正せば、あなたの過去の行為が原因です。
それを信じないのは自由ですが、信じようと信じまいと、カルマの法則は粛々と成就していきます。
人は何をしようと自由です。
人殺しだって、肉食だって、いじめだって、なんだってできます。
自分の行為の責任を取る勇気があれば・・・
生き物に与えた苦しみは、いつか自分に返されることを忘れないで下さい。
その時になって、自分の不幸を嘆かないように・・・
家族、周りからは、肉や魚も食べた方が良いと言われます………
昔から?今でも?肉や魚を食べてた私にも野菜だけの生活に果たして出来るのか?(^^;;
>家族、周りからは、肉や魚も食べた方が良いと言われます………
栄養がかたよるからという意味かな?
ヴィーガン(野菜しか食べない人)は不足しがちな栄養もあるけど、ラクトベジタリアン(乳製品も取るベジタリアン)なら、ほとんど問題ないです。
100歩ゆずって、仮に健康や長生きに良いとしても、さやかは、自分の少しばかりの健康のためには、動物たちを苦しめたり、殺しても構わないと考えるのかな?
>肉や魚を食べてた私にも野菜だけの生活に果たして出来るのか?(^^;;
ベジタリアンになるためには、以下の5つのものが必要です。
1.動物・生き物への愛(生命への敬意)
2.動物たちの苦しみに関する知識、または想像力
3.自己犠牲・自己放棄の精神
4.自制心・欲望の制御・忍耐力
5.少しばかりの勇気・覚悟
さやかに足りないのはどれかな?
動物たちの苦しみが分からないのであれば、以下の動画を見てはどうかな?
https://www.youtube.com/watch?v=rLGGmy1tsec&t=46s
野菜でも切ったりして食べるから同じだと(^^;;
ISOPが可笑しいかと(^^;;
>野菜でも切ったりして食べるから同じだと(^^;;
その回答が書いてあるから読んでください。
http://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2015/07/03/vegitarian-1/
う〜ん(^^;;
肉や魚を食べてたりしてた私の祖母でも骨粗しょう症になりましたからね〜?(^^;;
動画見たら、可哀想になりに肉を買う勇気が無いかもm(__)m
肉は止められても甘いものだけは止められないかもm(__)m
これは衝撃!解脱に肉食は関係ないそうですね。
http://premasai.jugem.jp/?eid=2786
となると嘘吐き偽善者のISOPの力説してるカルマ論の論拠も失いますね。
因みにそのチョビ髭のおっさんもべジだったそうですね。
ユダヤ人は魚以下の存在という事か。
それとクリスチャンでもないのに聖書から句を引用するな。
キリスト教ではベジ規定なんぞないぞよ、偽善者糞ップよ。
カルトさん
こんばんは。
今日はどうしたのですか?
信者なりすましによる、キリスト教のネガティブ・キャンペーン中ですか?^^
精が出ますね!お疲れ様ですm(__)m
でも、あまりやりすぎると、キリスト教徒の方からクレームがきますよ。
お気を付けくださいませm(__)m
まぁ、あまり茶化すのも失礼なので、ちゃんと返信します^^
しかし、議論を吹っ掛けられるのは、望むところですが・・・
失礼ですが、もうちょっと論理性をもって発言くれると嬉しいのですが・・・m(__)m
>これは衝撃!解脱に肉食は関係ないそうですね。
>http://premasai.jugem.jp/?eid=2786
あなたにとってはサワさんが教祖なのかな?
私にとっては、サワさんが言ってたからと言って、その言葉を絶対視するわけではありません。
聖者や聖典の言葉ならいざしらず、私にとっては、一介の占星術師の言葉の言葉に過ぎません。
あくまで、一つの参考意見です。
「サワさんが言っているから何?」としか言いようがないです。
個人的に言わせて頂ければ、バーベキューばかりしているような人が解脱するとは思えませんが・・・
あと、文中にある「絶対解脱する相」もないと思います。
たとえ、古典に載っていたとしても、成り立たない法則なんて山ほどあります。
また、その相を持つ人が解脱したか検証のしようもありません
あと、誤解のないように言っておきますと、私は、「肉食すると解脱できなくなる」とは思っているわけではないです。
私が一度でも、肉食すると解脱できなくなると言ったことがありますでしょうか?
何に対する反論ですかね?
>となると嘘吐き偽善者のISOPの力説してるカルマ論の論拠も失いますね。
なぜでしょう?
別に、カルマの法則で苦しみが返ってくることと、解脱することは矛盾しませんが・・・・
ブッダだって、キリストだって、人生において苦しみました。
それでも、解脱しているし、キリスト教風に言うなら、神の国に行ったのでしょう。
むしろ、苦しみが解脱の契機になることもあるでしょう。(ブッダのように)
何か問題がありますか?
ちなみにそのサワさんも、このように言っていても、カルマ論を否定しているわけではないと思いますよ。
>因みにそのチョビ髭のおっさんもべジだったそうですね。
一体誰の事でしょう?
「その」というのはその言葉を指しているのですか?
前の文に、チョビ髭のおっさんなんて、出てきていませんが?
>それとクリスチャンでもないのに聖書から句を引用するな。
はて?どのような権限や根拠があって命令されているのでしょう?
クリスチャン以外は聖書の引用を禁ずるというのは、どこの法律ですかね?
法的根拠を示して頂けるのなら、引用はやめましょう^^
>キリスト教ではベジ規定なんぞないぞよ、偽善者糞ップよ。
聖書の引用部分はベジ規定としてとらえたわけではありません。
「すべての生き物の中に神様がいて、誰に対してすることも、神さまに対してすることになる」ということを示している言葉と思ったから引用したまでです。
原理主義者さんの発言とかなりかぶっていましたm(__)m
教祖?
私は差別宗教であるヒンドゥー教徒ではないので教祖などいませんが。^^
どれだけ少なく見積もっても偽善者ISOPの100万倍は精神性の高いお方なので傾聴に値しますね。^^
>個人的に言わせて頂ければ、バーベキューばかりしているような人が解脱するとは思えませんが・・・
>別に、カルマの法則で苦しみが返ってくることと、解脱することは矛盾しませんが・・・・
自分の発言に矛盾しているようですね。^^
バーベキューばかりしている人=動物に苦しみを与え続けている人はあなた風に言えば「悪しきカルマ」を積み続けている訳で、ISOPカルマ論に従えばそんな人が解脱できるとなるとおかしいですよね?^^
チョビ髭のおっさんが誰を指しているかすら分からないようです。^^
直後に「ユダヤ人は魚以下の存在という事か。」と書いたにもかかわらず。^^
小学レベルの世界史も知らない頭のようですね。^^
>人は、ナチスやポルポトのやったホロコースト(大量虐殺)が悪いと非難します。
>でも、そんなものは家畜場にいけば、毎日行われています。
>私たちの行為が、ポルポトやナチと何が違うというのでしょう?
>そして、肉を食べると言うことは、それに加担している一人だということです。
へぇ~、あなたは私が何を信仰しているかまで透視する能力があるんですね。^^
あなたは自分にとって耳障りの良ろしくない発言を聞くと特定の国籍出身者扱いするネトウヨレベルといったところでしょうか。^^
>聖書の引用部分はベジ規定としてとらえたわけではありません。
>「すべての生き物の中に神様がいて、誰に対してすることも、神さまに対してすることになる」ということを示している言葉と思ったから引用したまでです。
これは最高に笑わしていただきました、感謝しますよ。^^
一神教・アブラハムの宗教と呼ばれる宗教ではこの世界を創造した唯一の絶対の神しかおらず、すべての生き物の中に神がいるなんていう土人多神教の発想をする訳がありません。^^
まあ、あなたはこんな世界主流派の基礎知識すら知らないんですからね。^^
聖書を引用するなと言ったのはあたかも聖書にベジ規定があるかの如く印象操作したので、あなたと同レベルの頭の馬鹿が読んだときにミスリードするのを単に避けさす為です。^^
読解力の欠片もない者が他人の論理性を批判ですか。^^
ゆとり教育で失われた知性って施しようがないとよ~く分かりました。^^
>どれだけ少なく見積もっても偽善者ISOPの100万倍は精神性の高いお方なので傾聴に値しますね。^^
そうですね。
完全に同意いたしますm(__)m
>自分の発言に矛盾しているようですね。^^
>バーベキューばかりしている人=動物に苦しみを与え続けている人はあなた風に言えば「悪しきカルマ」を積み続けている訳で、ISOPカルマ論に従えばそんな人が解脱できるとなるとおかしいですよね?^^
仰る通りですよ。
だから「個人的に言わせて頂ければ、バーベキューばかりしているような人が解脱するとは思えませんが」と書いたのですが・・・
何か問題がありますか?
>チョビ髭のおっさんが誰を指しているかすら分からないようです。^^
>直後に「ユダヤ人は魚以下の存在という事か。」と書いたにもかかわらず。^^
質問に答えていませんね。
あと、自分の言葉をすり替えて、論点をずらさないように。
あなたは「チョビ髭のおっさん」ではなく、「そのチョビ髭のおっさん」と言ったのです。
ただ、「チョビ髭のおっさん」と書かれていたなら、質問していません。
「その」というのは前述した言葉を指します。
指示語の使い方を学びましょうね。
>へぇ~、あなたは私が何を信仰しているかまで透視する能力があるんですね。^^
>あなたは自分にとって耳障りの良ろしくない発言を聞くと特定の国籍出身者扱いするネトウヨレベルといったところでしょうか。^^
はて?何を指して言っているのでしょう?信仰を見通す能力?
私の引用部分と、あなたの言葉が噛み合っていないようですが・・・ご自分の投稿を読み返してみては?
支離滅裂で、仰っている意味が分かりません。
>一神教・アブラハムの宗教と呼ばれる宗教ではこの世界を創造した唯一の絶対の神しかおらず、すべての生き物の中に神がいるなんていう土人多神教の発想をする訳がありません。^^
まぁ、解釈の違いですな^^
私は押し付けるつもりは全くありませんので、カルトさんはご自分の解釈で通せばいいと思います。
こちらにも、少し追加で返信しておきます。
>一神教・アブラハムの宗教と呼ばれる宗教ではこの世界を創造した唯一の絶対の神しかおらず、すべての生き物の中に神がいるなんていう土人多神教の発想をする訳がありません。^^
>まあ、あなたはこんな世界主流派の基礎知識すら知らないんですからね。^^
聖書の中にも、「すべての生き物の中に神がいる」、または「あなた方が神である」というような記述はあります。
——-
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」
-コリントの信徒への手紙1(3‐16)
———
「全てのものの父である神は唯一であって、全てのものの上にあり、全てのものを通して働き、全てのものの内におられます」
-エフェソの信徒への手紙(4‐6)
———
「私は言った、
『あなたたちは神々である。
皆、いと高き方の子らである』と」
-詩篇:82‐6
宗教に限らず、開運や医学的な観点からも肉食の問題を目にすることはありますね。
個人的に四つ足動物はもう完全アウトで食べれなくなってしまいました。脳が食べ物と認識してくれません。
こうなったのは、D20で減衰(例外則)惑星のプラティアンタルダシャーでした。ただでさえ、マハーダシャーとアンタルダシャーが精神性の強いダシャーだったので超強力に作用しました。1か月弱の間で肉大好き人間→肉食べたくない人間になったので(‘_’)その時期だけは、僧侶になりたいとか言っていました。笑
ただ、現在は、鳥はたまに食べるし(ちょっと嫌な感じはありますが)、魚は週1程度で食べますが特に食べることに精神的な負荷はかかりません。卵は普通に食べます。
ベジタリアンの人は、鳥や魚や卵ですら、完全に脳が食べ物と認識しなくなった状態なんでしょうね。
全ての生命を等しく見る慈悲の精神というのは、ISOPさんみたいに主要惑星がサットヴァな星座+ナクシャトラに入っていたり、かなり特殊な惑星配置もしくはサットヴァなダシャーがないと難しい気もします。そういう惑星配置がない人には啓蒙しようがないです。私自身、現時点で魚に対して慈悲の心を持てと言われてもチーンってなります。
まぁ、普通に俗世に生きてる人間は星回りの影響を受けている(ように少なくともわたしには見える)ので不殺の精神を持っていないと結局いつか自分に跳ね返ってくるんだろうなとは思っていますし、それでもいいならそれでいいのだとも思っています。もちろんカルマ論を信じない自由もありますし。
>宗教に限らず、開運や医学的な観点からも肉食の問題を目にすることはありますね。
仏教では、肉食が禁止されているはずなのですが(=不殺生戒)、守っている僧侶はほとんどいないですね。
真言宗僧侶である私の師匠・兄弟子たちも、肉・魚をバクバク食べます!^^;
昔の僧侶の方々は食べなかったのですが、いつから食べるようになったのか・・・
日本で多いのは、動物愛護、または生き物を苦しめたくないという感情的な理由じゃないかな・・・
次に多いのが健康目的ですね。
>ベジタリアンの人は、鳥や魚や卵ですら、完全に脳が食べ物と認識しなくなった状態なんでしょうね。
いや~、私はまだ肉魚卵が食べ物に見えますよ^^;
寿司やステーキ食べたらうまいんだろうな~とか思います。
そこは気合いで、欲求をねじ伏せます!
動物たちへの愛が、それを許さないです。
動物の殺害・加虐へ加担することの罪悪感が、それを許さないです。
自分の中の良心という法が、それを許さないです。
>全ての生命を等しく見る慈悲の精神というのは、ISOPさんみたいに主要惑星がサットヴァな星座+ナクシャトラに入っていたり、かなり特殊な惑星配置もしくはサットヴァなダシャーがないと難しい気もします。
う~ん・・・私の惑星の配置はあまり良くないと思いますよ。
木星8室で、かつ弱いし、傷ついているし、しかもこれ9Lだし・・・
私のベジになったのは、月と太陽がプシュヤにあることぐらいじゃないかな。(あと12室集中?)
ベジの人集めて、星回りに似た特徴があるか研究してみたいですね。
あと、『全ての生命を等しく見る慈悲の精神』という言葉で思い出したのが、バガヴァッドギータの言葉ですね。
私の好きな一節です。
————-
全ては我が身のこととして、他者の悲喜を我が悲喜として、
生きとし生けるもの全てを自己と見る人こそ、
アルジュナよ 彼は最高のヨーギである
『バガヴァッド ギーター』(6-32)
ISOPさんの場合、ナヴァムシャでもAsがレーヴァティにあるし、太陽もサットヴァな星座にいるし。っていうかAs、太陽、月がラーシ、ナヴァムシャでサットヴァな星座に5つ入ってますね。笑
ナヴァムシャの月だけ外れますけど。
12室に惑星集中もしてるしなるなるって感じです。
ただ、煽り耐性がないっていうかいちいちアンチに反応して戦っちゃうのは、ナヴァムシャ6室のケートゥ、太陽のせいでしょうね。
ベジの星回りは興味あります。
自分は、シャドバラで一番強いのは木星だし、ラーシ・ナヴァムシャでも木星は目立つ星ですけど、特にベジとかではないですし。動物愛護を声高々に叫ぶ人間でもないです。
木星よりも、As、月、太陽の在住する星座やナクシャトラの方が重要な気がします。
ギーターにそんな一節ありましたか。
感銘を受ける場所、記憶に残る場所も人それぞれで違うのでしょうね。
田中嫺玉さんのギーターは、紙とKndleどっちも持っています(^ω^)
個人的には神性と魔性について書かれた章が好きですね。何回かそこだけ読み返すことがあります。
ではではm(__)m
>ISOPさんの場合、ナヴァムシャでもAsがレーヴァティにあるし、太陽もサットヴァな星座にいるし。っていうかAs、太陽、月がラーシ、ナヴァムシャでサットヴァな星座に5つ入ってますね。笑
>ナヴァムシャの月だけ外れますけど。
星座ですか?・・・あまり星座に優劣をつけてみたことはなかったけど・・・機能するのかな?ナクシャトラはありそうですが・・・
Asはアーシュレーシャだし、土星・水星はアールドラーです。
結構ハードなナクシャトラです^^;
>ただ、煽り耐性がないっていうかいちいちアンチに反応して戦っちゃうのは、ナヴァムシャ6室のケートゥ、太陽のせいでしょうね。
「煽り耐性がないっていうかいちいちアンチに反応して戦っちゃうのは、」というのは、なんかアンチと戦うのが悪いという前提のような言葉ですが、個人的にはどんな人にも対応します(※スパムは別)。気に入らないのは消す・無視するという方が、自己に都合が悪いことから目や耳をふさぎたいだけではないでしょうか?
まぁ、アンチでも無視するのは、失礼かと・・・
丁重に対応して、お帰り頂くのが、一番よろしいのでは?
それに、荒らしみたいなのはあまり意味がないですが、アンチ・反対意見は重要です。
自分の知らない観点や知識を持っているかもしれないし、自分に新しい概念・感覚を発見させてくれるかもしれません。
以前に言ったかと思いますが、理系の議論では、論理を戦わせます。相手が論理的で、強いほど燃えます!私にとっては、ゲームに様なものです。論文出すときなんかは、査読者とのバトルです。こちらの主張の論理性の穴を付いてきます。論理性の塊のような人がいて、「すげぇ!」と感動することすらあります。「負けて悔いなし」みたいな感じになります。
理系の人は反論できなくなれば、負けを認めます。そこは潔いです^^
議論とは、より良い考え、より正しい意見、より真実に近い考えを追及する場です。
議論に向かう際には、自分の最善・最高と思う考え・論理を持って望むべきですが、常に、自分の考えが変わる可能性を残しておかなければいけないし、相手の方が正しいと感じた時はそちらの意見を尊重するという心構えでなければいけません。
それで無ければ、単なる考えの押し付け合い、我の張り合いになってしまうだけです。
一般に行われる議論は、相手を自分と同じ意見にするように、また自分と同じ色に染めることに、相手を負かすことに一生懸命になっています。
どちらも負けを認めたくないから、最後には喧嘩別れか、不和が残る。
結局、得られたのは不快感だけ。
これは、議論の意味が無いですね。
でも、お互いに真理に近づこうという意志があれば、議論はとても有意義なものになる。
議論で大切なことは、相手を自分の色に染めることでも、相手の色に染められるのに抵抗することでもなく、一番いい色、一番美しい色を、皆で探し出してくることでないかな?
そんなことを思います。
こんばんはm(__)m
マークボニー氏の本に『太陽、月、木星はサットヴァな惑星であり、これらが支配する星座と吉星が支配する星座はサットヴァな性質を強く表す』とあります。
まぁ、実際の鑑定でそこら辺を深く見たことはあまりないで、どれだけ作用しているかはわかりませんが・・・
アンチ(荒らし)に対してわざわざ戦う(議論する)選択肢を取るのは、多くは6室凶星の人だと思います。
わざわざというのは(前回の言い方も含めて)わたしがこの惑星配置を持ってないので、全く肌感覚として理解できないからです。
不思議というか惑星配置の違いに納得しているだけで、別に悪いと思っているとかではないですm(__)m
むしろ6室凶星は病気に勝てる配置なので羨ましくもあります。
>マークボニー氏の本に『太陽、月、木星はサットヴァな惑星であり、これらが支配する星座と吉星が支配する星座はサットヴァな性質を強く表す』とあります。
ふむふむ、面白そうだったので、ちょっとインド人聖者で検証してみました。(Asと月と太陽で検証)
●アマチ:As・天秤、月・牡牛座、太陽・乙女座
●ラーマクリシュナ:As・月・太陽共に水瓶座(私と同じくアダマ?)
●クリシュナムルティ:As・山羊座、月・射手座、太陽・牡羊座
●ラマナ・マハリシ:As・天秤座、月・双子座、太陽・射手座
●ヨガナンダ:As・獅子座、月・獅子座、太陽・射手座
う~ん・・・結構バラバラ?
聖者は特別な見方をしなければいけないみたいなことが書いてあったので、あまり参考にならないかもしれませんね。
>アンチ(荒らし)に対してわざわざ戦う(議論する)選択肢を取るのは、多くは6室凶星の人だと思います。
ふむふむ、なるほど・・・うちゃさん所でも、6室の特集が組まれてましたね!
今度から意識して鑑定することにします。
個人的には、火星と太陽が強いと、攻撃性と怒りとエゴが増して、ちょっとでも敵対するこのがあると闘う選択をする気がします。(例えば、田嶋陽子とかトランプとかヒトラーとか・・・)
私も太陽と火星が強いです!^^
私も昔はこの火星・太陽のせいで、怒りが強くて苦労しました^^;
>わざわざというのは(前回の言い方も含めて)わたしがこの惑星配置を持ってないので、全く肌感覚として理解できないからです。
う~ん、hikariさんも将棋やりますよね?
相手が挑戦してこれば、燃えませんか?
そして、相手が強いほど、楽しくないですか?
意外な一手打たれたら、感嘆しますよね?
私の議論とは、そんな感覚と同じです^^
最近、野菜ばっかりが多いかも(^^;;
買い物しても肉買ってないし(^^;;
こないだシチューを作っても肉無しのシチュー(^^;;
いつまで続くかなぁ〜?(^^;;
別に私が言っているからと言って、菜食になろうとする必要はないですよ。
私の言葉は判断材料の一つにすぎません。
私の意見、動画、様々な意見を聞き、それを基に自分の考えで菜食になりたいと思った時に、菜食主義になってください。
納得もせずに、人から押し付けられたものは、いつか破綻します。
ISOPさんへ
まず出鼻から煽り口調だったのは本当に反省しています。
ベジや宗教的な見解は完全に私と異なりますけど断じてISOPさんを嫌っていません。
私がムカついていたのは、ISOPさんがベジファシストとも言えるほどの暴君ぶりに怒りを覚えていたところにさやかさんに何度も上から目線的な口調で諭していたことが導火線に火を付けました。
これも個人的主観と言われればそれまでです。
前回滅茶苦茶貶しましたけど売り言葉に買い言葉です。
日本でトップクラスの大学院で博士号を習得している方の知性が低いわけがないし、精神性も引用したサワさんと同じくらい素晴らしい方だと思っています。
さすが私がミッション系の議論盛りの工房だと見抜いただけありますね。
だからあれは無視して下さい。
ただ私はベジやヒンドゥー教には非常に懐疑的です。
例えばF=maだとか質量保存の法則って自然科学の再現性を満たしていますよね。
でもカルマ理論ってその自然科学の手法を用いてどうやって証明するんですか?
昨日俺があいつに殴られたのは過去かもしくは過去生でその相手を殴ったから、、だとかそういった説明なんでしょうけどその因果律の説明だと何とでも説明できるという重大な欠陥を孕んでいます。
また例としてあまり良くないのを承知で言うと、飛行機事故で墜落して数百人の死者が出るといった事故が年に数回世界で発生していますよね?
じゃあ彼らは過去生で一体何を起こしたんですか?
同じ場所で同じタイミングで死ぬわけです。
彼ら一人一人が過去生では飛行機を墜落させたパイロットだったんでしょうか?
正直言ってハァ?としか思えないです。
また感情論に訴えかける方法もあります。
これもよくない例ですがバラバラ殺人の被害にに不運にも会った女性がいるとします。
というかこれも年に1回くらいはありますよね。
それであなたはその被害にあった女性の両親に会って「不運でしたねえ。しかしこれはあなたのお嬢さんが過去生で同じことを行った報いなんですよ」と面と向かって言えますか?
正常な感性を持っているならまず不可能でしょう。
因みにですが、私はカルマ論を肯定していないので過去生も肯定していません。
でも繰り返しますがこれだけは。冒頭でも言ったようにISOPさんを絶対に嫌っていません。
今自分のクラブ活動内で西洋占星術が流行っているんですよ。で、そこからインド占星術という存在も知りここに流れてきただけなんです。
ISOPさんに神の恩寵がありますように。
ヒンドゥーカルトさん。
コメントしてすみません。
心配して下さるのは有難いですが、私は身内ですので大丈夫ですm(__)m
私からのお願いですが酷いコメントは辞めて下さいm(__)m
カルトさん
ご丁寧な返信、ありがとうございましたm(__)m
>私がムカついていたのは、ISOPさんがベジファシストとも言えるほどの暴君ぶりに怒りを覚えていたところにさやかさんに何度も上から目線的な口調で諭していたことが導火線に火を付けました。
不快な思いをさせて、申し訳ないとは思います・・・
一般に、こういう菜食主義の話は、人々の反感を買います。
ただ、それを知っていても、どうしても言いたくなる時があります。
自分の身内が殺されそうになれば、カルトさんも必死で抵抗するだろうと思います。
また、ホロコーストや虐殺をする人たちにも、非難したい気持ちが出ると思います。
動物も同じ仲間と思っている人にとっては、それと同じ行動のような気がします。
ちなみに、ベジの人は攻撃的な人が多いですよ。
『人類は死すべし』と思っている人も、かなり大勢います。
ツイッターでは、過激な人を何人かフォローしてますが、私は動物を救おうと必死になっている彼らが好きです。
https://twitter.com/black_remedy
https://twitter.com/loveanimal1025
彼らの投稿写真を見て、少しでも動物たちのことを考えてくれる人が一人でも増えることを願って止みません。
さやかには、ちょっと上から目線でお話してましたが、
さやかは身内でして、かなり年下なので、こう言う口調になってしまいます。
まぁ、そのあたりはお許しくだされm(__)m
>例えばF=maだとか質量保存の法則って自然科学の再現性を満たしていますよね。
>でもカルマ理論ってその自然科学の手法を用いてどうやって証明するんですか?
おそらく科学的な証明はできません・・・カルマを計測する手段がないからです。
事象を集めたり、他の真理からの推論に頼ったり、第六感に優れた聖人に頼ったりして、できるだけ根拠を集めるしかないですね。
ちょっと、面白そうなテーマでしたので、コメント欄ではなく、新しい記事にして書こうと思います。
>彼ら一人一人が過去生では飛行機を墜落させたパイロットだったんでしょうか?
>正直言ってハァ?としか思えないです。
全員の前世がパイロットってことはないでしょうね。
例えば過去世において、崖から誰かを突き落したとか、誰かを事故死させたとか・・・いろいろ可能性は考えられますが、はっきりしたことは不明です。
>また感情論に訴えかける方法もあります。
>これもよくない例ですがバラバラ殺人の被害にに不運にも会った女性がいるとします。
>それであなたはその被害にあった女性の両親に会って「不運でしたねえ。しかしこれはあなたのお嬢さんが過去生で同じことを行った報いなんですよ」と面と向かって言えますか?
感情と真実は関係ありません。
人の都合・感情に合わせて真理が存在するわけではありません。
感情的に受け入れがたい真実なんてたくさんあります。
真実とは時として、人の耳触りが悪いものです。
特に死ぬ理由なんて誰だって受け入れがたいのではないですか?
例えば、1年以内にガンで死ぬと余命宣告されるとしましょう。
それが感情的に受け入れられないにしても、それは真実です。
医者は感情を考慮して、宣告しないこともあるでしょう。
でもそんな感情的に言える言えないにかかわらず、真実は真実です。
私も、女性が死んで悲しむ人に、カルマで死んだとは言えないし、言いません。
悲しませるだけで、何の益もないからです。
しかし、言わないということと、真実であるかというのは別問題です。
また、逆にお尋ねしますが・・・
カルマ則は感情的に受け入れがたいとのことですが、では、その女性はたまたまバラバラ殺人に会って死んだのでしょうか?
神はなぜ助けなかったのでしょう?
すべての現象は神が統括しているなら、神は罪のないその女性をたまたま選んで殺したのですか?
また、この世には、生まれつき不幸な人がたくさんいます。
病気、最悪な家庭環境、虐待、貧困、障害・・・
もし、これらに何の理由もなく、神様の気まぐれで決まるのなら、あなたの思う神は不公平ではないでしょうか?
そうなると苦しみや不幸の原因は神にあり、神を呪うことになるでしょう。
私には、その方が受け入れがたく、そんな神がいるとは信じられません。
逆に、カルマ則は、自分に原因があり、自己責任です。
他の誰も悪いわけではありません。
また完全なる公平な法則です。
カルマの法則は、聞くのはつらい事実ですが、一見この世の不公平と思える事象にも、一定の説明をしてくれます。
>ISOPさんに神の恩寵がありますように。
ありがとう!
カルトさんにも、神の恩寵がありますようにm(__)m
ISOPさん
ご返信とわざわざ新しい記事まで書いていただいてありがとうございました。そちらは後日じっくり読むとしてこちらに返信させていただきます。
とりあえず一神教・アブラハムの宗教と呼ばれる宗教での視点、特に自分はクリスチャンなのでキリスト教的視点から語らせていただきます。
まず第一に一神教では「神」は絶対の存在、また唯一無二の存在です。神は全知全能でありこの世界のすべてを創造されました。つまり神様以外は被造物(造られたもの)です。
蟻は蟻として造り、カエルはカエルとして造り、フクロウはフクロウとして造り、人間は人間として作りました。この部分は聖書の一番最初の創世記の1章に書かれています。
アメリカではキリスト教右派がダーウィンの進化論を学校で教えるなと活動しているのは有名な話です。反聖書的だからです。
死生観はこの世界での生はたった1度限りの有限であり、死後は復活の日を得て審判の後に其々の人間がこの世界で行った行為すべてに基づいて神により天国行きか地獄行きか決定されそちらでは無限の生を得ます。
クリスチャンでは更にイエス・キリストを信仰しているという条件が必要ですが、他の一神教でもそれを除けば基本的な価値観は共有していると認識しています。
>カルマ則は感情的に受け入れがたいとのことですが、では、その女性はたまたまバラバラ殺人に会って死んだのでしょうか?
>神はなぜ助けなかったのでしょう?
>すべての現象は神が統括しているなら、神は罪のないその女性をたまたま選んで殺したのですか?
その殺された女性が信仰者だったかどうか分かりません。
例え信仰者であったとしても個々個人の寿命は神様が管理しているので変えることは出来ません。
また遺族の方は不幸でしょうが、その女性自身は殺されるまでの生の行いで死後どちらかに行くか決められるので善行の方が多いと天国へ行きます。もちろん向こう(天国・神の国)では無限の生を得るので死ぬことはありません。
なので悲惨だったとは言えません。
それと神様が殺したのではなく、その実行犯が自由意思に基づいて殺したのです。
実行犯は地獄行きでしょう。なので死後の世界では実行犯と被害女性の立場が逆転しています。
これは私にとっては非常に公正な扱いと思うのですがいかがでしょうか?
>また、この世には、生まれつき不幸な人がたくさんいます。
>病気、最悪な家庭環境、虐待、貧困、障害・・・
>もし、これらに何の理由もなく、神様の気まぐれで決まるのなら、あなたの思う神は不公平ではないでしょうか?
>そうなると苦しみや不幸の原因は神にあり、神を呪うことになるでしょう。
>私には、その方が受け入れがたく、そんな神がいるとは信じられません。
確かに障害を持つ人、貧乏な家庭に生まれた人は五体満足で裕福な家庭に生まれた人より不公平ですよね。
しかしこちらでは死後の世界分を割り引いてこちらに生まれてきているという考え方です。
どういう事かというと障害を持つ人、貧乏な家庭に生まれた人はこの世界ではハンデを負わされているので、死後のあちらの世界では天国に行きやすいということです。
こういう方は例えるなら善行を行うと通常の人より2倍3倍になったり、悪行を行っても半分に減免されるのです。
つまり五体満足で裕福な家庭にこの世界に生まれた人の方が一生懸命頑張らないと地獄行きの可能性が高まります。
こっちの世界では70年程度の寿命でも、向こうは7000年ですらない永遠なのですから天国へ行けるなどとなると障害や貧しいことなど些細とも言えます。
ヘレンケラーなどは一番高い階層の天国に永遠にいるでしょうね。もちろん向こうでは目も見えるし耳も聞こえます。そう考えると彼女は不幸な人生だったんでしょうか?
*注 天国や地獄にも階層があってこの世界の行いによって神様の審判でどこへ行くか決定されます。
>全員の前世がパイロットってことはないでしょうね。
>例えば過去世において、崖から誰かを突き落したとか、誰かを事故死させたとか・・・いろいろ可能性は考えられますが、はっきりしたことは不明です。
過去生で飛行機を墜落させたパイロットや崖から人を突き落とした人が全く同じタイミングで今世ではパイロットや客室乗務員や乗客として同じ便に乗るのですか?
こっちの方がかなり無理があると思うのですがどうでしょうか?
>自分の身内が殺されそうになれば、カルトさんも必死で抵抗するだろうと思います。
>また、ホロコーストや虐殺をする人たちにも、非難したい気持ちが出ると思います。
>動物も同じ仲間と思っている人にとっては、それと同じ行動のような気がします。
近代的価値観である個人の尊重などの人権意識の高い欧米(キリスト教が優勢の国々)ではAnimal Rightsと言ってISOPさんと全く同じ主張をされているので別に違和感はありません。動物愛護団体の様な方々です。日本ではそういう活動家に変な偏見が付いているようですが私は持っていません。
ただAnimal Rightsという語から分かるように動物(へ)の権利なのです。Human Rightsとは分けて考えられています。それとその方々はISOPさんと同じ主張なのですが、カルマ論が含まれていません。カルマ論を除いた部分でそれ以外は全く同じなのです。
一神教では神様が人間を神様の形に似せて造ったので特別な生命体と考えます。
出エジプト記の20章以降からは現代刑法にも流れるような罰則規定がなされています。その中に羊や牛を捧げなければならないともあり、これがキリスト教でなくて申し訳ないのですがイスラム教の犠牲祭になっていると聞きます。
返信、ありがとうございましたm(__)m
なかなか、興味深い指摘でした。
>とりあえず一神教・アブラハムの宗教と呼ばれる宗教での視点、特に自分はクリスチャンなのでキリスト教的視点から語らせていただきます。
>まず第一に一神教では「神」は絶対の存在、また唯一無二の存在です。
キリスト教は一神教、ヒンズー教は多神教という認識が一般的かと思いますが・・・
実は、ヒンズー教も、究極的には一神教と同じです。
ヒンズー教の元となるヴェーダー聖典にはこう書かれます。
『ブラフマンのみが存在する。これを賢者は多と言う。』
結局、いろんな神や人、物や現象など、すべての多様性は、ブラフマン(梵)という唯一の存在から来ると言うことです。
唯一であって多・・・どういうことかと言いますと・・・
例えば、カルトさんは一人の存在ですが、部分で見ると、手や足や頭や胸や腹があるわけです。
じゃあどれが、カルトさんかと言われれば、全部カルトさんです。
その機能によって、いろいろなことをするパーツがありますが、結局一つのカルトさんです。
神様も同じようなもので、唯一の存在でありながら様々な表れでもあるという認識です。
>まず第一に一神教では「神」は絶対の存在、また唯一無二の存在です。
もちろん絶対の神が存在しますよね。
私も異論はありません^^
でも、エホバ(ヤハウェー)、ゴッドにアッラー、シヴァにヴィシュヌ・・・
いろいろな神がいますが、どれが絶対の神でしょうか?
私はこう考えます・・・
例えば、「海」は日本では海と言いますが、アメリカではSeaと言います。ドイツ語ではMeer(メーア)といい、中国では海(ハイ)と言います。
海と言っても、Seaと言っても、同じものをさしますが、表すものは一つです・・・いろいろ呼び名は変わっても、示すものは同じです。
それと同じように、絶対の存在で一つでありますが、呼び名は変わります。様々な名でよばれますが、皆同じものを崇拝しているのだと思います。
だから、宗教間により、「うちの神が本物だ!」などと争う必要はないだと思います。
聖賢がそれぞれの地域性、時代性に応じて、真理と言うものを表現しました。
だから、多少表現や内容は異なりますが、根底は同じです。
サイババはこのように言っています。
「たった一つの宗教がある。それは愛の宗教である。
たった一つのカーストがある。それは人間というカーストである。
たった一つの言葉がある。それは心の言語である。
たった一つの神がある。それは遍在の神である。」
例えば、愛、思いやり、慈悲、やさしさ・・・
これらの言葉には、その根底に同じものが流れているのを感じませんか?
幸せにあった欲しいという感情、相手の事を思う感情、自他不二・・・それを、どう表現していいか分かりません。
宗教も同じで、全てに人々を幸せに導こうという意思を感じます。
それを愛と言ったり、真理と言ったり、呼び名はいろいろかもしれませんが、根底は一つではないでしょうか?
>神は全知全能でありこの世界のすべてを創造されました。つまり神様以外は被造物(造られたもの)です。
>蟻は蟻として造り、カエルはカエルとして造り、フクロウはフクロウとして造り、人間は人間として作りました。この部分は聖書の一番最初の創世記の1章に書かれています。
>アメリカではキリスト教右派がダーウィンの進化論を学校で教えるなと活動しているのは有名な話です。反聖書的だからです。
無限である神様にとっては、一瞬も永遠も同じ事だと思います。
数百万年という一瞬で作った。
個人的には、どちらも正しいと思います。
>死生観はこの世界での生はたった1度限りの有限であり、死後は復活の日を得て審判の後に其々の人間がこの世界で行った行為すべてに基づいて神により天国行きか地獄行きか決定されそちらでは無限の生を得ます。
なるほど。
しかし、聖書には、「人を裁くな」「人を許しなさい」と教えますね。
神さまは、人にそう命令するのに、ご自分は人を裁き、決して許さないのでしょうか?
これは、矛盾していないでしょうか?
もし『神』が正義なら、“悪人”は裁くのでしょう。
例えばヒトラーはどうでしょう?麻原はどうでしょう?
彼らはどれほどの苦しみを人に与えましたか?
神が『正義』なら、彼らは地獄に行くでしょう。
多くの人を殺した罪を『神』に裁かれて、地獄に落とされ、苦しみ味わうことになるのでしょう。
一方で、神は『愛』であり『赦し』であると言います。
もし『神』が『愛』なら、『神』は悪人を含めた全てを愛している。
『愛』はどんな悪人も赦すでしょう。
無条件で、絶対の『愛』。
でも、それはいわゆる『正義』ではない。
それだと、“悪”はやりたい放題であり、逆に犠牲者はやられ損で癒されることは無い。
正直者や善人が馬鹿を見るということになる。
この、両立できない『愛』と『正義』をどのように考えますか?
(一応、私には私なりの答えがありますが・・・)
>それと神様が殺したのではなく、その実行犯が自由意思に基づいて殺したのです。
>実行犯は地獄行きでしょう。なので死後の世界では実行犯と被害女性の立場が逆転しています。
>これは私にとっては非常に公正な扱いと思うのですがいかがでしょうか?
本当に公正でしょうか?
また、自由意思はそもそもあるのでしょうか?
例えば今も、あなたは私の言葉で何かを思う、そして何かを言い、私もそれに反応する
それは自由と言うよりは、単なる連鎖反応です・・・
他人にそういう思いを誘起させられているだけです。
自分の思考を追って行けば、単なる連想ゲームであることが分かります。
スピノザの“エティカ”の定理48にはこうかかれています。
『 精神の中には、絶対的な意思、あるいは自由な意思は存在しない。
むしろ精神は、このこと、あのことを意欲するように原因によって決定され、この原因も他の原因によって決定され、さらにその原因も他の原因によって決定される。
そしてこのように無限に進む。 』
カルトさんは、殺人者が自由意思で殺したと言いますが、本当にそうなのでしょうか?
犯罪者の多くは、その環境に依存します。
多くの経験により、そういう思想・考え方が身についた、または殺すように思わされたとも言えます。
例えば、以前に、彼を虐待した人間は・・・過去に彼を馬鹿にし、人間扱いしなかった人々は・・・彼に悪事を吹き込んだ人間は・・・この事件に全く責任がなかったって言えるのだろうか?
果たしてどこまで彼の責任なのでしょう?・・・本当に彼だけの責任なのでしょうか?
彼が弱く、そういうことを克服できないことが原因だというだけで済まされることでしょうか?
私だって人を殺す可能性はいくらでもあります。
殺人者の多くは、昔は“私が人を殺すわけがない”と思っていた人ばかりです。
もし私に恋人がいて、目の前で殺されたら、もしかしたら、怒りに駆られて殺した相手を殺すかもしれない。
そんな大それたことでなくても、例えば、友達と大喧嘩になって我を失っていて、たまたま手にナイフを持っていたら、刺し殺してしまう可能性もゼロではないでしょう。
運が悪ければ、誰でも人を殺す可能性はある・・・カルトさんも例外じゃない。
これまでそういう場面にたまたま出くわさなかっただけ・・・
私たちが人を殺していないのは、運が良かっただけじゃないかな?
そう考えれば、犯罪者・殺人者は、たまたま運が悪かっただけかもしれない・・・
それでも、地獄に行って永遠に苦しまなければならない・・・
これは不公平ではないでしょうか?
>確かに障害を持つ人、貧乏な家庭に生まれた人は五体満足で裕福な家庭に生まれた人より不公平ですよね。
>しかしこちらでは死後の世界分を割り引いてこちらに生まれてきているという考え方です。
>どういう事かというと障害を持つ人、貧乏な家庭に生まれた人はこの世界ではハンデを負わされているので、死後のあちらの世界では天国に行きやすいということです。
>こういう方は例えるなら善行を行うと通常の人より2倍3倍になったり、悪行を行っても半分に減免されるのです。
>つまり五体満足で裕福な家庭にこの世界に生まれた人の方が一生懸命頑張らないと地獄行きの可能性が高まります。
>こっちの世界では70年程度の寿命でも、向こうは7000年ですらない永遠なのですから天国へ行けるなどとなると障害や貧しいことなど些細とも言えます。
>ヘレンケラーなどは一番高い階層の天国に永遠にいるでしょうね。もちろん向こうでは目も見えるし耳も聞こえます。そう考えると彼女は不幸な人生だったんでしょうか?
障害などの例はそれでいいとしましょう。
では、生まれた時から周りには、暴力、犯罪、貧困があり、親も犯罪者で親からは全く愛情を受けずに育ち、いわゆる悪に道に進むことは必然と言える人たちがいます。
ISなどでは、子供のころから銃を手にして、欧米諸国を憎み、戦うことを訓練されます。
もし、犯罪や悪事に手を染めても、彼らの責任でしょうか?地獄に行くのですか?
かたや愛情深い親の元に生まれ、善良な人々に囲まれ、奉仕やボランティアが当然のような意識で育った人々・・・彼らとは不公平ではないですか?
環境が人を作ります。
犯罪を犯すようにように作られたものが、そうなったからと言って、誰に責任があるのでしょう?
もし、彼らが地獄に行くのなら不公平ではないでしょうか?
ヘレン・ケラーだって、サリバン先生がいたからこそ、あのような高い思想を持ち得たのです。
もし、サリバン先生がいなかったら、あのような三重苦の克服は出来なかったかもしれません。
>過去生で飛行機を墜落させたパイロットや崖から人を突き落とした人が全く同じタイミングで今世ではパイロットや客室乗務員や乗客として同じ便に乗るのですか?
>こっちの方がかなり無理があると思うのですがどうでしょうか?
それはごもっともです・・・普通の感覚では信じられませんよね^^
しかし、聖書だって、海を割って歩いたり、死者を生き返らせたり、パンや魚がモコモコ増えて行ったり・・・信じられないようなことばかりではないですか?
それらは信じられるのに、同じようなカルマを持つ人の飛行機事故は信じられないというのは、おかしな話では?
例えば、アガスティアの葉には5000年以上前に、私、またはさまざまな方の運命が書かれています。
その人の存在と言うのは、先祖をさかのぼると、2のn乗で増えていきますが、途中一つでも切れたらアウトです。その人が生まれることを予言するというのは、ほとんど奇跡です。いわんやその運命をや。
それと比べれば、飛行機事故にそのカルマを背負った人が集まることぐらい、不思議でもなんでもなく、当たり前すぎることでしょう。
また、現に葉っぱにも、善行により災害を逃れる人、逆に悪いカルマにより災害に会う人などが書かれていた例があります。
これは、災害や集団事故などもカルマ則に則っていることを示す記述です。
>一神教では神様が人間を神様の形に似せて造ったので特別な生命体と考えます。
>出エジプト記の20章以降からは現代刑法にも流れるような罰則規定がなされています。その中に羊や牛を捧げなければならないともあり、これがキリスト教でなくて申し訳ないのですがイスラム教の犠牲祭になっていると聞きます。
人はまず、自分の良心に従うべきではないでしょうか?
私には他人ではないので、その人の善悪のことは分かりません。
でも、その人の心の中の法では、心の中の良心では、価値基準では、生き物を苦しめることは正しいこととされるのでしょうか?
他人に事は分かりませんが、私には、心の良心の声を無視しているように感じます。
私はどんな聖典に書かれていようとも食べないでしょう。たとえ神が言っても無駄です。
サイババやヴェーダ聖典が「肉を食べた方がよい」と書かれていても食べません。
私の中の法、私の中の良心という名の聖書には、「生き物を苦しめてはいけない・殺してはいけない」と書かれているのだから。
『生きとし生けるものが幸せでありますように・・・』
その願い、その祈りだけが私の中にあります。
はっきり言って、それ以外のことはどうでもいい些末なことです。
ISOPさん
建設的、議論的なご返信ありがとうございます。
今回もキリスト教視点による返信や疑問になりますがお許しください。^^
>もちろん絶対の神が存在しますよね。
>私も異論はありません^^
>でも、エホバ(ヤハウェー)、ゴッドにアッラー、シヴァにヴィシュヌ・・・
>いろいろな神がいますが、どれが絶対の神でしょうか?
>私はこう考えます・・・
>例えば、「海」は日本では海と言いますが、アメリカではSeaと言います。ドイツ語ではMeer(メーア)といい、中国では海(ハイ)と言います。
>海と言っても、Seaと言っても、同じものをさしますが、表すものは一つです・・・いろいろ呼び名は変わっても、示すものは同じです。
>それと同じように、絶対の存在で一つでありますが、呼び名は変わります。様々な名でよばれますが、皆同じものを崇拝しているのだと思います。
>だから、宗教間により、「うちの神が本物だ!」などと争う必要はないだと思います。
少し一神教系に誤解をされているようです。
アブラハムの宗教では絶対唯一の神がアブラハム、モーセ、ノアなどの預言者を通して人類に善悪などの人間として生きていく上での指針を下したとされます。これらが啓示宗教と呼ばれる所以です。
「神」は唯一です。しかしそれはISOPさんが「海」の例で出されたように言語が違うため同じ指示内容を別の言葉というか単語になってしまうのです。
ヘブライ語の Yahweh יהוה と 英語での God とアラビア語での Allah الله は全く同じ絶対唯一の神を指す言葉です。ですのでどの一神教に属していてもこれらは全く同じと考えています。
ではなぜ争いが起きているかというと解釈の違いにあるからです。
ユダヤ教徒は旧約聖書の部分のみ経典と認めてイエスキリストを偽預言者、聖書に余計なものを付け足した連中として新約聖書とイエスキリストを認めていません。
キリスト教徒は旧約と新約で聖書が完成されたのに後からムハンマドが出てきてコーランという余計な聖典を付け足したとしてムハンマドとコーランを認めていません。
争いはここで起きています。また残念ながら同じ宗教内での聖典の解釈の違いによって宗派が生まれてそこでも争いが起きています。しかし絶対唯一の神はこの3宗教の共通概念なのです。
さてヒンドゥーに持ってくると Brahman ब्रह्मन् が上記のYahweh, God, Allahで示された「絶対唯一の神」を表す語なのでしょうか。私は無知なのでこの点は全く分かりません。
ですがヒンドゥー教徒を見てみると例えば「ガネーシャ」や「ラクシュミー」に対して(それも模られた像に)祈っていますね。
これでは到底 Brahman ब्रह्मन् に祈ってはいません。だから多神教徒だと言われるのです。もしヒンドゥー教徒が一神教だと主張したいのなら Brahman ब्रह्मन् に対してのみ祈ってください。
もちろん祈る対象としての偶像は作ってはいけません。クリスチャンは多少甘いところがあるので強く言えませんが、一神教では偶像崇拝は厳禁です。出エジプト記20. 23など。
それとキリスト教プロテスタントの一般的な視点でこの世界への見解を述べているものを見つけたので紹介します。プロテスタントの神父の方が書いたもので私もこれらの回答に賛同します。言い忘れていましたが、私はプロテスタントです。
http://kongoh.kyokai.org/pdf/christianQandA.pdf
問9.で
>世にいう因果応報の間違った思想でどれほどの多くの方が苦しんでこられたかと心痛みます。
とあります。この因果応報の法則は言うまでもなくカルマ論のことです。ここからも分かるようにカルマ論を肯定しつつクリスチャンであるということは成立しません。
また前回と今回ISOPさんが問われているこの世での不公平には以下の見解です。
>>>
問9.
「この人が盲目に生まれたのは誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それとも彼の両親ですか」その時キリストがこう言われたのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもあ
りません。神の業がこの人に現れるためです」(ヨハネ 9:1-3)神の業とは、神を信じて生きることの素晴らしさがこの障害を通して体験する、という意味です。
問 12. 人間死んだら終わりではないでしょうか。死後の世界な
どどうしても信じられませんが…
この世を見ると矛盾や理不尽なことが横行しています。まじ
めに生きてきたのに報われなかったり、また結構ずる賢く生きて
いる者が表彰までされて長生きしているとか、若くして難病に遭
うとか…もしこの世だけが全てなら、この世は何と不公平な世
でしょう。しかし聖書を見ると、死後来るべき世界があること、そ
して、この地上での理不尽、不公平の一切が正しく裁かれる世界
があることを示しています。
>>>
またインド占星術はヒンドゥー教と強く結びついているようですが、インド人でない者から見ると異様と感じるようです。本多さんが以下の記事で手強く批判しています。
http://chardash21.astro459.com/?eid=1428754
>そしてインド占星術は根底にヴェーダ思想がある。しかし同時にそこからヴァルナの思想、いわゆるカースト制度の原型が生まれている。カースト制度にはヒンドゥーの立場からはそれなりの主張があるだろうが、私には人間差別とうつる。
>彼等のもつカルマという名の宿命観、神との関わり方の違い称する人間差別観、妙な特権意識、そして商業蔑視、金銭罪悪感に対して大きな抵抗を覚える。
これは私がここで主張している内容と全く同じなのです。人をバラモンだのシュードラだの出生によりランク付けしてジャーティとかいう職業身分まで作り、それでも飽き足りずアウトカーストまで作っちゃう差別根性丸出しのヒンドゥー教が真理だったら驚愕ですね。
神の前なら人種や出生や社会的身分に一切基づかなく皆等しいとする方がどう考えても愛に満ちています。世界人権宣言の根幹をなす基本的人権という概念がキリスト教から出たのは偶然ではないと思います。
>しかし、聖書だって、海を割って歩いたり、死者を生き返らせたり、パンや魚がモコモコ増えて行ったり・・・信じられないようなことばかりではないですか?
これを言われると全く反論できません。ただそれを信仰するという内面の問題になってきます。
>人はまず、自分の良心に従うべきではないでしょうか?
私は絶対唯一の神の教えに従いたいです。繰り返しになりますが「神」は唯一無二の絶対でありすべてを作ったお方でそれ以外は被造物(神に造られたもの)なので、私は神様の啓示した事項に従いたいのです。私はそれが聖書であり、自己努力でそれを読んで分からないところや疑問点は牧師に聞いてみる、そういう姿勢でいます。間違っても牧師の言う事を絶対視しません。
ヒンドゥー教では絶対唯一でない「ガネーシャ」や「ラクシュミー」の偶像に対して祈っています。更に聖者とされる者ををグルだとか言ってその言動を絶対視している集団(私から見るとカルト)が普通にあります。「ガネーシャ」だろうが「サイババ」だろうが絶対唯一の神の被造物(神に造られたもの)なので絶対唯一の神の被造物である人間が別の神の被造物に祈る、従う行動は滑稽でしかありません。
自己批判もしないと怒られそうなので言っておくとカトリックもカルトですね。彼らは絶対唯一の神の啓示に従うことを忘れてしまって代わりにローマ法王を頂点として教会の教えを絶対とするするカルト集団です。
>例えば、アガスティアの葉には5000年以上前に、私、またはさまざまな方の運命が書かれています。
>その人の存在と言うのは、先祖をさかのぼると、2のn乗で増えていきますが、途中一つでも切れたらアウトです。その人が生まれることを予言するというのは、ほとんど奇跡です。いわんやその運命をや。
アガスティアの葉というのは全く知らないので調べてみました。葉を開いてくれるように依頼した者が出生に関する情報、つまり生年月日や出生地を葉を開く前に必ず聞かれるそうですが、その間に占星術で見ているという懐疑的な見方があるようですね。
それと最初の投稿で張ったサワさんのところにこうあります。
>>>
つまり言いたかったのは、最初にアガスティアの葉を見た時、その内容量は今思えばものすごく少なかったんです。
でも、その時のわたしは「来世がない」と、その時葉っぱに言ってもらえたことで救われました。
それで十分でした。
実はその後何回も葉っぱを開けて、いろんな種類のがあるんですけど、合計10回くらい開けて、中には来世が出てきてるのもあったかと思います。
http://premasai.jugem.jp/?eid=2742
私は今まで自分自身のアガスティアの葉のような葉っぱ系の予言の書を10回以上開けていますが、
(10回とも葉っぱの中で指示されたすべてのカルマの解消を行いました。)
自分で何度も開けてみて感じたのは、これらの予言の葉っぱは本当に、開けたその瞬間のその人のバイブレーションに対応したものだということです。
そういう意味ではどのような内容であっても完璧なのです
そして、だからこそ実はアガスティアの葉には過去も未来もない、と、私は理解しています。
http://premasai.jugem.jp/?eid=2789
>>>
10回開けたという彼女の発言は嘘ではなさそうなので聞いてみるとそれぞれ異なったことが書かれてあるとの趣旨がなされています。つまり内容が矛盾しているということです。(彼女は逆にそれが完璧と述べていますが、、)カルマ論に基づいてこの世界でどのような事が起こるかが全て決定されているという概念と一致しません。またISOPさんは自由意志に懐疑的なようですが、ヒンドゥー教では自由意思を一切認めないのでしょうか?
キリスト教では神様がどういう人間か(障害を持っているか五体満足か、貧乏か裕福か)といったこの世界に「造る時点」の決定はしますが、生を受けた後、つまりこの世界で生きている間は完全に自由意志を持たせているとしています。ですので信仰する・しないも自由ですし、この世界で何を行うかも自由なのです。それに基づいて死後に神様自身が審判を下されるので釣り合いが取れています。
>あと、常々思っていたのですが、カルマ則にはもう一つ弊害があります。
>それは、憐みや思いやり、同情、慈悲の心を無くすことです。
>なぜなら、カルマ論が真実なら、本当はこの世にかわいそうな人など誰もいないからです。
世に出る不遇な人々、事件に巻き込まれた不幸な人々、いわゆるかわいそうな人々も、本当はたまたま苦しんでいる人は一人もいません。すべて、自分の行為の結果です。
>そう考えると、すべての苦しみは、自業自得、因果応報・・・苦しむのも当然であるのだから、苦しめておけばいいということになってしまいます。
これは別の記事でichiさんへ返信したISOPさんの発言ですがその通りで通常の感覚で上記の発言を行うと異常者扱いされそうです。カルマ論おかしくありません?
それとカルマ論って常々疑問があるのですが、その「あるカルマ」ってどこから来たんですか?
バラバラ殺人の例で申し訳ありませんが、その被害女性は前世で同じことを行った報いなんですよね?
ではその前世での被害者は同じくそのまた前世でのバラバラ殺人の加害者という事になり、そのまたまた前世での・・・と遡っていくとどこに行き当たるんでしょうか?
最初に誰かがバラバラ殺人をしないとそれは起こらないという帰結に行きつきますが、自由意志を認めていないカルマ論では不可能ですから。
またこの生でもカルマ論は不可解です。巡り巡って最終が解脱なのは良しとしましょう。でも一番最初は何なのでしょうか?人間?別の生物?何回生まれ変わる必要があるのか?何でそもそも「輪廻」させる必要があるのか全く分かりません。
私にはこちらの世界ではたった1度きりの生であり、そこでの行いで死後の世界が決まる(そっちは永遠)との方がスパッと来ます。
まだまだやり取りが続くのかはわかりません。
批判的な内容が多く、書き損ねたり支離滅裂になっている部分が多分にあります。しかしカルマ論が意味不明で消化できないだけでISOPさんを絶対に嫌っていません。
ISOPさんに神様の恩寵がありますように。
カルトさんへ
こんばんは
私なりにISOPさんの事は知ってるつもりです。
昔から動物への愛情は今でも変わらずに居ます。。。
菜食主義になったのも動物への愛情があるからこそ殺してまで食べるのが可哀想だと思いますm(__)m
周りからは感謝して頂きなさいっと言われますが(^^;;
私に上から目線に関してはISOPさんの方が正しいので読んで不愉快になる事もありますが私からもお許しくださいm(__)m
良い意味でISOPさんは好きな身内ですm(__)m
さやかさんへ
優しいコメントをくださっててありがとうございます。
さやかさんはISOPさんの妹さんか何かなのでしょうね。
最初は感情論になってISOPさんへ暴言を吐きましたが2度としませんので許してください。
背後からバットで殴りつけるネット通り魔もいるのにさやかさんは非常に優しい方ですね。ありがとうございます。
カルトさんへ
こちらこそ返事ありがとうございますm(__)m
ISOPさんの妹でしたら嬉しいですね。。。
ISOPさんに聞いて下さるとΣ(゚д゚lll)(笑)
私は気にしてないので大丈夫ですよ?
もちろんISOPさんも気にして無いかと思いますのでm(__)m
優しいって言って頂きありがとうございますm(__)m
原理主義者さん
>私の書き込み全てと上にあるヒンドゥーカルトの私に向けた書き込みをけしてください。
>この書き込み自体も含めてです。
原理主義者さんの投稿は削除いたしました。(一応、何か間違いがあった時で戻せるように、「非承認」にしています)
あと、『ヒンドゥーカルトの私に向けた書き込みをけしてください』とのことでしたが、基本的に他人の投稿の削除依頼はできません。削除依頼ができるのは、ご自分の投稿のみです。
ヒンドゥーカルトさんの投稿の一つは消しましたが、あなたの削除依頼で消したのではなく、あなたへの誹謗中傷があったという理由で消しました。
あと、基本的に掲示板ルールでは、ご自分の投稿でも、他人のレスのついているのは削除依頼はできません。後で見た方が、なんだか分からなくなるからです。今回は、レスしているのが私だけだったために、例外的に削除いたしました。(※ヒンドゥーカルトさんのレスがついたものもありましたが、誹謗中傷という理由で削除したために、結果的に、レスは無くなりました)
一部、会話の途中が消えてなんだか分からなくなりましたが、まぁ良しとしますm(__)m
ISOPさんいろいろお手数おかけし申し訳ありませんでした。
削除に関しては私の過去の書き込み全てですので今の状態で大丈夫です。
こんばんはm(__)m
ちなみに、ラオ先生の本にも吉星が支配する星座に在住する惑星をカウントする。凶星が支配する星座に在住する惑星をカウントするみたいな記述もありました。ただ、それをどう分析に役立てるかまでは書いてはありませんでしたが(´・ω・`)
検証ありがとうございました。あんまり作用はしていなさそうですが、どうなんでしょうね。
火星が強くて攻撃性が高い人もそれを家族、配偶者にしか向けない人とかもいますからね。いわゆる「敵」に対して攻撃的になるのは惑星配置が大きい気もします。
将棋はお互いルールに則ったうえで勝負するから面白いんであって、荒らしやアンチは相手の目的がただの誹謗中傷や炎上だったりしたら相手するだけ徒労に終わります。ここは原理主義さんが言っていたのと同じような感想を持ちますね。
カルトさん
今、仕事が一番忙しい時期でして、返信遅くなりましたm(__)m
長くなりそうなので、少し切って、別々に返信しますm(__)m
また、投稿の階層が一番下まで行ったので、ちょっと仕切りなおします。
>アブラハムの宗教では絶対唯一の神がアブラハム、モーセ、ノアなどの預言者を通して人類に善悪などの人間として生きていく上での指針を下したとされます。これらが啓示宗教と呼ばれる所以です。
「神」は唯一です。しかしそれはISOPさんが「海」の例で出されたように言語が違うため同じ指示内容を別の言葉というか単語になってしまうのです。
ヘブライ語の Yahweh ???? と 英語での God とアラビア語での Allah ???? は全く同じ絶対唯一の神を指す言葉です。ですのでどの一神教に属していてもこれらは全く同じと考えています。
ふむふむ・・・
私にはエホバの証人の友達がいたのですが、彼は「神はエホバだけです」と主張していましたが・・・キリスト教も流派により解釈がいろいろあるのですね。
>ではなぜ争いが起きているかというと解釈の違いにあるからです。
>ユダヤ教徒は旧約聖書の部分のみ経典と認めてイエスキリストを偽預言者、聖書に余計なものを付け足した連中として新約聖書とイエスキリストを認めていません。
>キリスト教徒は旧約と新約で聖書が完成されたのに後からムハンマドが出てきてコーランという余計な聖典を付け足したとしてムハンマドとコーランを認めていません。
>争いはここで起きています。また残念ながら同じ宗教内での聖典の解釈の違いによって宗派が生まれてそこでも争いが起きています。
そのようですね。
宗教や宗派の違いにより、解釈も権威とするものも様々ですね。
そもそも言葉と言うのは、正確に真実を伝えることはできません。
正確でないため、語弊が生じ、解釈の違いが生まれます。
私には海を見たこともない人たちが、
「私の本には海は青だと書かれている!」
「何を言ってるんだ、私は海は紺色だと聞いたぞ!」
「いやいや、海は透明だと聖典は仰っています!」
そういう不毛な争いを、何千年と繰り返しているように見えます。
私には、記述は矛盾していても、同じことを言っているように感じます。
実際に海を見、触れた時、海はどのようなものかを知ることができるのでしょう。
>さてヒンドゥーに持ってくると Brahman ???????? が上記のYahweh, God, Allahで示された「絶対唯一の神」を表す語なのでしょうか。私は無知なのでこの点は全く分かりません。
ブラフマンについてはこちらをどうぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
ただ、理解と言葉上の知識は別物です。
私も知識上知っているだけで、実際にどのようなものかは、悟るまで分からないでしょうね。^^;
>ですがヒンドゥー教徒を見てみると例えば「ガネーシャ」や「ラクシュミー」に対して(それも模られた像に)祈っていますね。
>これでは到底 Brahman ???????? に祈ってはいません。だから多神教徒だと言われるのです。もしヒンドゥー教徒が一神教だと主張したいのなら Brahman ???????? に対してのみ祈ってください。
ブラフマンというのは、あまり信仰の対象にはなっていません。
なぜなら概念が無く、把握できないものだからです。
聖典にはこうあります。(うろ覚え)
『概念のないその存在を把握することができない。
理性はその追求に失敗する。』
だから最初は、そのブラフマンの現れの一つである各神々に祈るのです。
例えば、カルトさん本人がいたとして、
ある人がその手や足や顔を洗ったり、もんだり、さすったりして、ケアしたとします。
それでも、カルトさんは嬉しいでしょう。
部分である手や足や顔も、カルトさんの一部です。
同様に、無数にいる神々も、一つの神様の多様な側面にすぎません。
カルトさんの仰る「ガネーシャやラクシュミーではなく、ブラフマンだけに祈れ」と言うのは、手や足をケアせず、本人だけをケアしろと言っているようなものです。
>もちろん祈る対象としての偶像は作ってはいけません。クリスチャンは多少甘いところがあるので強く言えませんが、一神教では偶像崇拝は厳禁です。出エジプト記20. 23など。
ふむふむ、なるほど。
カルトさんの仰ることはある意味正しいと思います・・・
ただ無想の神を信仰できるのは、かなりレベルの高い人だけでしょうね。
私はこう考えます・・・
信仰には段階というものがあり、簡単な方法から入り、次第に本当の真理に近づいていくという方法を取ります。
本来、神は無相ですが、なんせ姿も形もないと、良くわからない!
なんだか分からない物に、人は祈りを捧げることはなかなか難しいです。
そういう理解不能で、人の概念の及ばない、属性の無いものをどうして愛することができるのかな?と思うときがあります。
どうして知らないものを愛することができるのかと・・・
そういう人のために、まずは形のある神を愛することから始めます。
また、神像や仏像は入口・ドアの役割をしているだけです(ムルティといいます)。
例えば、母親の形見の品を持つとき、それは母親ではないが、それがあれば母を思い出すでしょう。
そんな形見(偶像)は母親ではないと言うのは、もっともかもしれませんが、それが役に立つ場合もあるのです。
もちろん、キリスト教やイスラム教の、無相の神を否定するものではありません。
むしろ、媒介物を必要としないので、そっちの方が優れているのかもしれません。
人だって「形見や写真など必要ない・・・私の心の中にいつもいるのだから」と言えるのなら、大したものでしょう^^
でも、信仰の初心者にとっては、ちょっといきなりハードルが高いかなと感じます。
インドは、皆、神様が大好きな国です。
いろんな形の神様がいて、入りやすいのだと思います。
その点では、神像や宗教画なども非常に良い働きをしていると思います。
これらは方法論の違いであり、どっちが正しいというものではないと思います。
私は、どちらの方法でもいいのだと思います。
続きです。
>問9.で
>世にいう因果応報の間違った思想でどれほどの多くの方が苦しんでこられたかと心痛みます。
>とあります。この因果応報の法則は言うまでもなくカルマ論のことです。ここからも分かるようにカルマ論を肯定しつつクリスチャンであるということは成立しません。
前にも言いましたが、真実は人間の嗜好の問題ではありません。
辛い事実でも、それが真実なら真実としか言いようがありません。
例えば、『万有引力の法則という間違った思想のせいで、いったいどれほどの多く人が高いところから落ちて死んだことでしょう。だから万有引力は間違いです』とはならないでしょう。
また、『カルマ論を肯定しつつクリスチャンであるということは成立しません。』とはどういうことでしょう?
キリスト教の教義に反するものは否定するということでしょうか?
真実と教義が矛盾したら、教義を取るのでしょうか?
エゴは言います。
『私の宗教は正しくなくてはいけない。
なぜなら、私の宗教だからだ。』
と・・・
ある人が、「『信じる』ということは『真実を知りたくない』ということです」と仰っていました。
ある意味、そうなのかもしれません。
カルトさんが仰るように、今の苦しみがカルマのせいと聞くのは辛いかもしれませんが、同時に希望をもたらします。
なぜなら、苦しみを作れたのなら、喜びもまた自分で作れるからです。
この辺は、和尚の言葉にもあります。
http://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2016/04/23/karma-and-responsibility/
続きです。
>問9.
>「この人が盲目に生まれたのは誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それとも彼の両親ですか」その時キリストがこう言われたのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです」(ヨハネ 9:1-3)神の業とは、神を信じて生きることの素晴らしさがこの障害を通して体験する、という意味です。
上記は、神さまのせいにしないように言葉を選んでいますが、要は「神が苦しめた」「神が盲目にした」と言うことでしょう。
神さまは、サイコロ遊びをして、誰かに幸や不幸を与えているのでしょうか?
私は、誰の責任でもなく、自分の行為の結果とする方が、合理的だと思います。
また、前回質問した、生まれた時から周りには、暴力、犯罪、貧困があり、親も犯罪者で親からは全く愛情を受けずに育ち、いわゆる悪に道に進むことは必然と言える人たちはどうでしょう?不公平ではないでしょうか?それでも永遠の地獄に行くのでしょうか?
また、ISやタリバンのように、子供のころから人を殺せと教えられ、それが神への道と信じ、その通りに行い、神と同胞のためになると自爆して、それでも地獄に行くのでしょうか?
>問 12. 人間死んだら終わりではないでしょうか。死後の世界などどうしても信じられませんが…
>この世を見ると矛盾や理不尽なことが横行しています。まじ
>めに生きてきたのに報われなかったり、また結構ずる賢く生きて
>いる者が表彰までされて長生きしているとか、若くして難病に遭
>うとか…もしこの世だけが全てなら、この世は何と不公平な世
>でしょう。しかし聖書を見ると、死後来るべき世界があること、そ
>して、この地上での理不尽、不公平の一切が正しく裁かれる世界
>があることを示しています。
裁きと、地獄という懲罰、そして天国という報酬・・・それを神が与えるのですね。
一方、カルマ理論と言うのは法則であり、神の懲罰や報酬という裁きではありません。
万有引力の法則に善悪がないように、カルマ則にも善悪はありません。
ただ、「同じものが返る」という、ある意味、無味乾燥な法則、よく言えば善悪を超越した物です。
なぜそんな法則があるのかと言えば、人の成長のためです。
自分の行為の結果として、その結果は自分の責任と認めたときに、自分の行為を省みることになり、それを生かした次の選択をすることができるからです。
人は罰からは学べません。他から与えられたものだからです。
この前、カルトさんは「神により天国行きか地獄行きか決定されそちらでは無限の生を得ます」と言いましたね。
一度の生で、人は永遠の地獄か天国か決まってしまうのでしょうか・・・
人は更生し、やり直すことはできないのでしょうか?
「神は愛」と言われますが、ではなぜ“愛”である神がどうして“地獄”なんていう『国』・『世界』を創造する必要があるのでしょう?
“地獄”というものは、宗教組織が後から想像し、付け足されたものです。
宗教組織は、報酬と懲罰というシステムを作り出し、不安や恐怖で人を縛ろうとしました。
そうしなければ、人が離れていってしまうからです。
そのために地獄、煉獄、リンボー、大罪、小罪、免罪符、告戒、懺悔、ありとあらゆるものを作りました。
この世の愛は全て条件付きです。
~したら愛してあげる、悪いことをすれば愛してあげない、成功すれば褒めてあげ、失敗すれば叱られる。
人は、すべて、『~すれば』という、条件付の愛や幸せしか知りません。
『神』もこのような世間で見出す“愛”を基準にして考えています。これらの人間の経験をもとに『神』を想像しました。
悪いことをすれば、地獄に落とされるだろう、神の怒りを買えば、罰を与えられるだろう・・・
人が創造(想像)した神は、このように『愛』ではなく『不安・恐怖』から、『光』ではなく『闇』から作られました。
神に従えば天国に行け、逆らえば地獄行き、でもそれは、いわゆる“独裁者”の態度と変わりがありません。
そんなちっぽけな神しか、我々は想像できなかった。
恐れる必要の無い神、善悪を決め付けたり、罰を与えない神は、素晴らしすぎて、わたしたちが考える神に当てはまらないからです。
“神”の世界では『~せよ』とか『~してはならない』というものはありません。
神には肯定しかありません。
ある意味、神はすべての管理者・支配者で、神が肯定したから、この世の物事は起こるのです。
私たちは『善』も『悪』も『上』も『下』も選べます。
それこそが、神からの最高の贈り物です。神はアルファでであり、オメガです。
それによって私たちはこの世を経験できます。
個人は勝手に『善悪』、『正邪』を決めればいい。
その決定が、自分という“人間”が何かを『決定・創造』します。
しかし、この世界には本来、絶対的な“善”も“悪”も“正しい”も“間違っている”も存在しません。
ものごとはものごと、それだけです。
あるのは考え方の違いだけ。
そもそも、“神”が全能ならば、なぜ神の意思に反するような可能性をお作りになったのか?
神は人に自由に選択させることをしながら、神の望みに反したと言って罰するのだろうか?
神の意思に反したといって、永遠の業火に焼かれるとか、際限の無い苦悶にさいなまれるとか、どうしてそんなことを神が人にするのか?
どこにそんな復讐心に満ちた神がいるのだろうか?
神の愛と神の憐れみ、神の知恵と神の赦し、神の意図と神の目的は、どれほどの凶悪な犯罪、どれほど凶悪な犯罪者を包み込むほど大きい。
神が赦せない悪は無く、神が愛せない人もいません。
なぜなら神は条件つきの愛ではないから。
続きです。
ちょっと息切れがしてきました^^;
>人をバラモンだのシュードラだの出生によりランク付けしてジャーティとかいう職業身分まで作り、それでも飽き足りずアウトカーストまで作っちゃう差別根性丸出しのヒンドゥー教が真理だったら驚愕ですね。
神の前なら人種や出生や社会的身分に一切基づかなく皆等しいとする方がどう考えても愛に満ちています。世界人権宣言の根幹をなす基本的人権という概念がキリスト教から出たのは偶然ではないと思います。
そうですね・・・基本的に同意いたしますm(__)m
私も、このあたりは好ましい制度とは思わないです。
カルトさんが仰るように、キリスト教や仏教の平等観は、このあたりは世界に良い影響を与えていると思います。
(ただキリスト教も、特権階級意識や権力にまみれているとは思いますが・・・)
ただ、少し弁解するならば・・・
カーストはインドの社会にまだ存在しますが、それはヒンドゥイズムというより、ある人々の解釈が差別意識を産んだというのが正しいようです。
カーストはインドではヴァルナと言います。
ヴァルナとは社会的順列・階級制度と思われていますが、本来の意味は「役割」という意味です。
カーストは、神の四肢に例えられます。
リグ・ヴェーダーにはこうあります。
『プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンとなり、両腕がクシャトリヤとなり、両腿がヴァイシャとなり、両足はシュードラとなった』
本来、各ヴァルナは、手と足、口のように、それぞれ役割が違うというだけの話です。
手が足より優れているわけでもなく、口が手より偉いわけでもありません。
本来、差別的な意味合いはありません。
差別意識を産んだのは、様々な理由によります。
バラモンには祭司としての、クシャトリヤには戦士としての、ヴァイシャには平民としての、シュードラには労働者としての役割があり、その義務に則ることが求められます。
バラモンは、世俗の欲求・快楽主義から離れてなければならないために、他のカーストとは離れてなければならないとされます。
これは差別ではなく、修道士や修道女が家を出て、世俗と交わらない生活をするのと似ています。
ただ、バラモンには、そう言った欲望・快楽を求める世俗の感覚に対して、「穢れ」とか「忌むべきもの」という意識があります。
そういう意識が他のカーストを蔑視するという形で差別的な意識を産みました。
ただ、それらは本来、差別的な意味はありませんでした。
まぁ、ヒンドゥイズムの弁護になってないかもしれませんが、そういう歴史があることはご理解くださいm(__)m
>私は絶対唯一の神の教えに従いたいです。繰り返しになりますが「神」は唯一無二の絶対でありすべてを作ったお方でそれ以外は被造物(神に造られたもの)なので、私は神様の啓示した事項に従いたいのです。私はそれが聖書であり、自己努力でそれを読んで分からないところや疑問点は牧師に聞いてみる、そういう姿勢でいます。間違っても牧師の言う事を絶対視しません。
絶対唯一の教えとは聖書の中にあるのでしょうか?
たしかに聖書や聖典は、神の啓示を受けて書かれた物であり、人を導く力があります。
しかし、神さまの啓示した事項というのは、本当は、すでに自分の中にあるのではないでしょうか?
言葉と言うのは比喩表現です。
言葉と言うのは、真実を正確に伝えることはできません。
例えば、カレーを食べたことがない人に、カレーの味を正確に伝えることはできないでしょう。
正確でないため、語弊が生じ、解釈の違いが生まれます。
例えば新約聖書はキリストが亡くなって何年も経ってから纏められました。
編纂に当たった人は、キリストを実際には見たことも聞いたこともないような人たちです。
『間違っても牧師の言う事を絶対視しません。』と仰っていますが、結局、伝聞で聞いてきたことを取りまとめたのは牧師(神父)達でしょう。
その人の意向や解釈により、多少ゆがめられたものもあるのではないでしょうか?
そう言った意味では、聖書も神さま自体ではなく『被造物』です。
例えば、キリスト教も、初期の頃には輪廻転生を教える教父もいましたが、6世紀の公議会で、多数決により、この説は異端とされ輪廻転生が受け入れられなくなったということです。
神さまは、全ての人に語りかけ、また、全ての人の中にいます。
真実とは、本当はあなたの中にあるのではないでしょうか?
http://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2016/05/21/%E3%80%90%E8%A8%80%E8%91%89%E3%80%91%EF%BC%9A%E3%80%8E%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E6%9C%88%E3%80%8F/
>ヒンドゥー教では絶対唯一でない「ガネーシャ」や「ラクシュミー」の偶像に対して祈っています。更に聖者とされる者ををグルだとか言ってその言動を絶対視している集団(私から見るとカルト)が普通にあります。「ガネーシャ」だろうが「サイババ」だろうが絶対唯一の神の被造物(神に造られたもの)なので絶対唯一の神の被造物である人間が別の神の被造物に祈る、従う行動は滑稽でしかありません。
う~ん、例えば、単身赴任や遠距離恋愛で、愛する人の写真を眺めている人を、「単なる写真じゃないか」と言うでしょうか?
母の形見の指輪を見て、忍んでいる人を「単なる物じゃないか」と滑稽に思うでしょうか?
彼らにとっては、それらの物は、愛する人たちと同一視しているでしょう。
同様に、偶像に対して祈っていても、それらを神さまと同一視しているのです。
>「ガネーシャ」だろうが「サイババ」だろうが絶対唯一の神の被造物(神に造られたもの)なので絶対唯一の神の被造物である人間が別の神の被造物に祈る、従う行動は滑稽でしかありません。
そういう「神の被造物」という前提ならば、滑稽に映るのかもしれませんが、ヒンドゥイズムでは前提が異なるのです。
彼らは、この世を被造物とは見ません。全てが神であると見ます。
だから、神をある一面であるガネーシャでも、ラクシュミーでも、グルでも、自分が神だと信じて祈れば、唯一の神を崇拝したことになるのです。
まぁ、解釈の違いですから、カルトさんはカルトさんのやり方で構わないと思います。
ただ、相手のやり方・信仰を認めるということは、非常に大事だと思います。
あなたには滑稽に見えても、それはあなたの価値観・パラダイムに合わないと言うだけのことです。
他の人々も、あなたと同じように、自分の信じているものが最善だと思っています。
皆、自分が正しいと思うものを信じているだけ・・・皆、あなたと何も変わりがありません。
私は、基本的に道や信仰を差別しません。
最善とか一番ではなく、その人に合った道と、合わない道があるだけだと思っています。
山登りでも、頂上に至る道は数多くあります。
また、川は何本もあるけど、皆一つの海に至ります。
同じように、誰もがいろんな道を模索しながら、真理や神、真我に向かう道を歩んでいます。
人の数だけ道があります。
さだまさしの歌に、『道化師のソネット』というのがあります。
その中に、こんな一節があります。
『 僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで
時の流れを下ってゆく 舟人たちのようだね
・・・(中略)・・・
きっと誰もが 同じ川のほとりを歩いている 』
https://youtu.be/36NevTzBDko
誰もが川のほとりを、一つの海を目指して歩いている気がします。
私たちは、いろいろ道は違えど、同じゴールを目指す仲間ではないでしょうか?