【運命と自由意志-27】:運命と自由意志について・・・「アガスティアの葉」より
コメントにアガスティアの葉の話が出てきたので、青山圭秀氏の「アガスティアの葉」の最後の章から部分引用します。
青山さんが、アガスティアの葉を読み、サイババの元を訪れるところからです。
何かの参考になればと思います。
非常に深遠な内容であり、もう何十回も読み返した部分です。
カルマ、自由意志、神の恩寵、運命、真の自由・・・・・・占い師としても考えさせられる重要な内容ではないかと思います。
長いので、最終章の一部だけ引用致します。
興味を持たれた方は、本を買って、ぜひ全部読んでみてください。
(前略)
私は、運命と自由意思についての本質的な議論をサイババに挑まなければ、と思っていた。というより、思い詰めていた。
「スワミ、アガスティアの予言には、私の現在・過去・未来が全て書かれて……」
だがサイババは、それをさえぎって言った。
「おまえは、そうやって自分の過去や未来を知ってどうするのだ。
それが本当に自分の過去だったかどうか、おまえにはわかるまい。
本当にその未来が訪れるのかどうかは、これからの精進による。
どの道、おまえには現在しか与えられてはいないのだ」
(中略)
サイババは続けた。
「過去世において、おまえは由緒正しいブラーミンの家系に生まれ、不二一元のシャンカラ哲学を学んだ。
この世界が唯一で、分離不能な実存であるというこのヴェーダの根本概念におまえは魅かれ、
さまざまな慈善活動に携わったが、その一方では不道徳な生活に陥った。
だがそれでも、おまえには一筋の純粋な心が残っていた。
そして、今際のきわにおまえの唇からもれた、『真実が欲しい』というたったひと言の祈りが、
わたしの心を捉えて放さなかったのだ。
そうしてわたしは、次の生でおまえをシルディに呼んだ」
「……」
「おまえはシルディでわたしのことを文章にしたが、
短い生涯を終えるまでに、それが公の目に触れることはついになかった。
こうして、おまえが今生でわたしの物語を書物に著すことが決まったのだ」
サイババは厳しい表情をしていた。
一方の私は、サイババの口から直接語られた私自身の過去世の秘密を、ただ呆然として聞くしかなかった。
(中略)
「スワミ、それと同じことが、アガスティァの予言書に……」
サイババは、それを即座にさえぎって言った。
「アガスティアにこれらのことを教えたのは、誰なのだ。
アガスティアの祈りを聞き、その讃美を受けたのは一体誰か。
これらを教えた尊神シヴァは、今こうして、おまえの目の前に化身している」
「……」
「やがて来る次の生では、わたしは再びおまえを呼ぶ。
だが、それはこのような形でではない。
わたしはおまえを、プレマサイの地、マンディアに再生させる。
両親はわたしにちなんで、おまえをサイ・ヴェンカタと名付けるだろう。
この神聖な名を名乗り、神と一体となり、二度と再び、おまえは――」
こうしてサイババは、私に口をはさませることなく、その後に続く私の人生を一気に語った。
向かい合ったまま、どれくらいの時が流れたのか、よくは思い出せない。
だがそれは、今までにだれとも持ったことのない濃密な時の流れだった。
過去から未来にわたる時の全てが、そのひと時に集約されていた。
やっとのことで口をついて出たのは、常々私が思い続けていたことだった。
「ということは……ということは、われわれの運命はあらかじめ決まっているということなのでしょうか。
人間の自由意思は、どうなってしまうのでしょう」
人知を超える神秘の世界に身の程も知らず挑もうとする少年を、サイババはどう思っただろう。
このとき、おもむろに口を開いたサイババの答えは、私を驚かせるに十分だった。
「この地上に生きる者の中で、真に自由な者など一人もいない」
「……」
「自由とは、他からの独立を意味する。
他に依存し、無明の状態にあって自分は自由だと主張しても、意味がない。
欲求と欲望のとりこでいて自分は自由だと主張しても、意味はない。
完全な自由は、この地上にあってはだれにも与えられていない」
(それでは、結局私たちは……)
「おまえはまず、”自由”の意味を理解しなければならない。
自由とは、英知より生じ、真の人格から来るのだ。
束縛が少なければ少ないほど、自由は大きい。
そして、人を束縛しているのは、その欲望に過ぎない。
自由とは束縛のないことであり、欲望のない状態を指す。
それは純粋な英知から来る。
そして人は、神と一体となった時、ついに本当の自由を手に入れるのだ」
「……」
私は、ケララ州で最初に出会った占星家・ナラヤン師の言葉を思い出した。
『過去からの行ないで現在が決まり、現在の行ないで未来が決まる。
それらは、カルマの法則で厳格に規定されており、その影響を免れることはだれにもできない。
だから、今生での正確な誕生時刻と位置、あるいはそれに代わるものがあれば、そこから未来や過去を計算することもできるのだ。
ただし、それは現象のレベルでの話だ。
最も深い霊性のレベルでは、神が自由であるように人も自由だ。
そのレベルに立った時、人は自由な選択を行ない、なおかつ行動を誤ることがない。
それは、なにものをも超越した状態だ』(『理性のゆらぎ』271~272頁)
もしかしたら、ものごとは決まっている、という言い方は正しいのかもしれない。
なるほど、ものごとは決まっており、それ故に占星学やアガスティアの予言などというものが成立する。
確かに、話を物質レベルに限定するのであれば、自由意思というものを説明する方法は今のところ見当たらない。
そこでは、自由意思は、あるような気がしているだけなのかもしれない。
しかし、もし、この世界には物質よりも深いレベルが存在し、われわれの精神性がその存在のレベルに依って立つとしたら、話は俄然、意味深さを増す。
(中略)
私はなおも、サイババに尋ねた。
「あなたの行なわれる奇跡現象は、あなたの力が、われわれの知っている物質世界の法則を凌駕するものであることを示しています。
しかし霊性の世界には、さらに深い法則、カルマの法則があります。
もしわれわれが常にそうしたまどろみの中にいて、マーヤーに支配されているとしたら、
あなたはどのようにして、われわれをそこから救い出されるのですか」
サイババは言った。
「わたしの恩寵は、何ものにも優先する」
「しかし、神が恩寵を注ぐのは、それなりのカルマを持った……(そういう時期にある人ではないのでしょうか)」
「確かに、神は相手を選び、時を選ぶ。だが、神の遍在とはどういうことか。
それは、神の恩寵がだれにも、常に、限りなく注がれているという事実を言ったものではないのか。
そこに、カルマの出る幕などはない」
(中略)
しかし私の心には、それでも納得しきれない何かがひっかかっていた。サイババは言った。
「おまえは、この本の読者のことを気にしているのだね」
「そうです。彼らの中には、善良で、敬慶で、あなたのことを四六時中想っているような人がいます。
本当に、あなたの助けを必要としている人たちがいます」
これは、私の心の奥から出た、真実の叫びだった。
実際、この数ヵ月の間に来た手紙の中には、私には受け取り切れないほど重いものも含まれていた。
(中略)
そんなことを想う私に、サイババは言った。
「おまえたちが互いに心を寄せ合うとき、わたしは必ずそこにいる。
わたしの祝福は、書物を通じてわたしを知る人々にまで及ぶだろう。
彼らがわたしのことを知るようになったのは、決して偶然ではないのだ」
「……」
「なるほど、おまえは彼らを知らないだろう。
だが、わたしは知っている。
心配はいらない、心配はいらない」
サイババは、Don’t worryと二度繰り返し、神の恩寵についてのそんな心配など、まるで問題にならないという表情をした。
しかしそれでも、私は食い下がった。
「ではたとえば、病気をあなたに癒される人とそうでない人がいるのは、なぜなのでしょうか。
あなたのもとを訪れても、会ってもらえる人とそうでない人とがいるのは、なぜなのでしょう。
私はたまたまアガスティアの予言を読み、前世の罪を減殺する処方箋を実行することができました。
でも、皆が皆、そうするというわけにはいきません」
「おまえは大きな勘違いをしている」
サイババはぴしゃりと言った。
「おまえが処方箋を実行した時、シヴァ神にアヴィシェカムを捧げた。
それは一体誰に捧げられたのか。
パールヴァティにアヴィシェカムを捧げ、ガネーシャにアルチャナを捧げたが、それは誰に捧げられたのか。
それらはみな、わたしが受け取ったのだ。
そして、おまえが子供たちに供した食事は、だれよりもわたしが楽しんだ」
「……」
「わたしに会うとはどういうことか。
それは、こうしてわたしの肉体に接するということではあるまい。
神に仕えるとはどういうことか。
それには、神の顕れである身近な者に仕えるしかないだろう。
生きるとはどういうことか。
それは単に、肉体をながらえることではないはずだ」
私はまたしても、「化身」サイババの迫力に打ちのめされていた。
かつてキリストは言った。『これらの最も小さな者に行なったことは、私に行なったことである』と。
われわれが互いを尊重し、愛し合うこと。もしそれにあえて理由づけをするならば、それは、あらゆる存在の中に、たった一つの同じ神性が宿るからである。
それだからこそ、われわれの行為というものは、誰に、何をしたとしても、全て神に捧げられたものとなる。
サイババが、センターを増やしたり”信者”を増やしたりする必要は少しもないというのも、同じ理由による。
真心から出たものであれば、いつ、どこで、どんな名の神を礼拝してもよい。
それぞれが自分の宗教や信条、自分の哲学において進化し、意識を高めていけばよいのである。
結局、神を礼拝するのに、本当は特別なことをする必要はない。
あるいは過去や、過去世の罪の償いをするのに、なにも聖者の予言を読みに行く必要もないのである。
誰に何を捧げても、結局は、唯一の神がそれを受け取るのだから。
(以下略)
清水俊介先生が、今年の9月10日は特別な一日だった、とおっしゃってます。
何でもすべての星が同宮せず、しかも全ての星が強い状態だったのだそうで・・・
清水先生は「アヴァター(神の化身)が地上に生を受けるのは、こうゆう日なんでしょうね」と結んでいらっしゃいますが、私は「こんな日に生まれた人が成長して全員トランプ大統領みたいな人になったらどうしよう・・・」と内心ビクビクしています。
私も嫁と一緒に、最近の星回りがすごいと話していたところでした。
10日は、金星、ケートゥ、ラーフ以外、全部強いですね。
確かにすごい日ですが、その日に生まれたのは何万人といるはずです。
その中ですべてが世に傑出した人になるかというと、そうはならないというのが、占星術の難しく、また奥深いところですね。
また、今日と明日も、月が蟹座に入り定座なので、非常に星回りが強くなりますよ!(ちなみに10日は月は高揚)
金星と月が同居というのが少し気になりますが・・・^^;
星回りが良く、明日月曜日に、月がプシュヤに入りますので、ガネーシャ様をお店の机に安置させる予定でいます。(※神像の安置というのは、日取り( =ムフルタ)が重要です)
ただ、ガネーシャ様と月はあまり仲が良くないので、もしかしたら月曜日は避けた方がいいのかもしれませんが・・・^^;
唯一の神とは世界であり全て
自分の運命(本当の意味で)なのかもしれません
六師外道で人間の運命は全て決まっているという人もいました
しかし人間の全てを決められていた所でやるべき事はかわらないと思います
目の前の事に対してできることをする
善人ならば他者を尊重しもっと進んだものならば自分も尊重する
本当は自分すらも他人かもしれません
自分の全ての事がその別の自分によってもたらされている事に気がついたとき世界がマーヤだと本当の意味で体得できるかと思います
痛みも五感も感情もそのほかも全て自在と知ったとき貴方ならどうされますか
私はそれでも自分を確かめたいと思う
でもただそれだけ
コメント、ありがとうございます。
>六師外道で人間の運命は全て決まっているという人もいました
>しかし人間の全てを決められていた所でやるべき事はかわらないと思います
そうですね。運命が決まっていても、それを知ることができないなら、結局決まっていないのと同じなのかもしれません。
では、占いや予言というものは、何のために使われるべきなのか?運命を知ってどうするのか?という存在意義の疑問が出ます。
より良い選択をするため、未来に対する心構え・心の準備のため、人知を超えた大いなる法則を知るため、自分の使命を知り全うするため・・・
いろんな回答があると思いますが、自分でもはっきり答えられません。
でも結局、おっしゃられるように、人は自分の最善を尽くすしかないのだと思います。
>自分の全ての事がその別の自分によってもたらされている事に気がついたとき世界がマーヤだと本当の意味で体得できるかと思います
サイオーガニゼイションでは、コロナの影響でオンラインのヴェーダやスタディーサークルなどがほぼ毎日催されているのですが、
昨日のスタディーサークルは、「神の操り人形」というテーマでした。
本当の行為者は誰なのか?
神に操られる人形は「わたし」「わたし」と言うけれど、本当の私とはいったい誰なのか?
そういったことがテーマでした。
この世は神に操られており、神が本当の行為者で、本当の私というのは神というのが、このスタディーサークルのおおよその結論でした。
でも、すべての行為者が神というのなら、いくつか疑問が出て来ると思います。
一つは、この世の苦しみ、悪事、悲惨も神がなしているのか?ということです。
残虐なホロコーストも、原爆を落としたのも、何人も拷問して殺した殺人鬼の行為も、すべて神が行っているのだろうか?という疑問です。
もし神が愛なら、もっと人を賢く、愛と喜びに満ちた存在として作り、幸せな世界を築くことができなかったのだろうか?
もう一つは、神が行為者なら、行為の結果は誰に行くのか?という疑問です。
例えば、ある人がひどい環境に生まれ、人を殺したり、強盗したり、悪事を働いたとする。
実際は彼は操られているだけであって、その本当の行為者が神なら、カルマの結果が、その人に行くというのはどういうことなのだろうか?
行為者が神なら行為の結果も神が受け取るべきではないのだろうか?
運命に導かれ、その悪事をなすことが決まっており、その行為の結果、苦しまなければならないのだとしたら、理不尽ではないのだろうか?
これらの疑問に対する回答は難しいですね。
でも、その答えを知ることができれば、この世の悪や苦しみに対して、違った目で見ることができるかもしれません。
>痛みも五感も感情もそのほかも全て自在と知ったとき貴方ならどうされますか
悟ればこれらが自在になるのでしょうか?
きっと悟ったときには、苦しみも、五感も、感情も、すべては夢であり、幻であると気づくのではないでしょうか?
私がサイババの言葉で一番驚いたのは、
ある側近が「どうしてこの世は苦しみに満ち溢れているのでしょうか?」と聞いたとき、
サイババは「苦しみなんてどこにあるの?」と回答したことでした。
悟った人、神様から見れば、この世はマーヤー、夢であり、実在ではないのかもしれません。
昨日のスタディーサークルのテキストを載せておきます。
何かの参考になれば・・・m(_ _m)
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「わたし」とは誰か?・・・あやつり人形の歌
スワミ:よく来たね。このまえのわたしの話をよく考えて、確固たる信念をもって実践し、 至福をそこから得たか。
バクタ:神に帰依するわたしが、甘露のごとき御言葉を浪費するはずはございません。
真の至福を得ることを求める者は、決してあなたの恩寵による甘露の御言葉を投げすてたりはいたしません。
他の人はいざ知らず、わたしは御教えについて昼も夜も考えめぐらし、勇気と信念をもって実践しました。
わたしはスワミに再びお目にかかる日を待ちのぞんで、夜も眠れませんでした。
スワミ:あなたのような真剣な態度をみなが持てばよいのだが。
世俗のうつろいやすい馬鹿気たことにかかずらって、それらを追い求め、手に入らなかったといってはくよくよ悩み、手に入れたといってはとび跳ねて喜ぶ。
すべてそれらはアヴィディア・マーヤー(無知による幻影力)だ。
しかしあなたはわたしに会う機会を指おり数えて待ちのぞみ、神の御言葉を夜もおちおち眠れぬほどに聞きたいと切望し、神髄を吸収している。
これこそヴィディア・マーヤー(英知による想像的創造力)である。
神に帰依する者がヴィディア・マーヤーにとらえられるとき、かならずかれは修行を成就することができる。
だから、このヴィディア・マーヤーがあなたを照らしたことは、あなたが幸運なのだ。
ヴィディア・マーヤーを発展させなさい。つまり神を絶えず憶念する心的傾向をますます強めなさい。
いかなることがあろうとも、それを中止することがあってはならない。
あなたはかならず浄らかになる。霊的修行が成就し、目標に達することができる。
バクタ:スワミ、先月あなたは、「わたし」とはだれか、説明してくださると仰いました。
「わたし」はだれかを理解することができましたら、わたしの疑問はくまなく晴れ、あなたに冥想し、至福でいることができます。
それより以上の幸福はございません。
スワミ: よしよし、「わたし」の真の性質について話すことは、いたって簡単だ。
しかし自分で体験しなければ完全に満足することはできない。
わたしが心ゆくまであなたに語り、あなたが完全にその意味を理解するには、いくらかの時間が必要だ・・・
今のところは、民謡調で書いた つぎの歌の意味を理解しなさい。
そうすれば「あなた」がだれかについて、かなり理解することが出来よう。
これを読めば、かなり識別力を得ることができるはずだ。
そして、この次、わたしの話す意味を、より明瞭により容易に理解することができる。
単に読むのではなく、一語 一語の意味をじっくりと考えなさい。この歌によって、あなたの考えは一新するだろう。
バクタ:わかりました。
では、どうか歌を読ませてください。
わたしは甘露を飲み、消化吸収したいと思います。
スワミ: よくききなさい。
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1、 タイ! タイ! タイ! タイ! タイ! ダミイ!・・・
あやつり人形の、「こっけいな」芝居をごらん
ああ・・・人よ過去と現在と未来、
すぎこしかたと、これから先の、長い長い話を聞きなさい
2、 かれは、始め牢獄のように、暗い母胎の、どろどろのぬかるみに動めいていた
かれは、悲鳴をあげてこの世に生まれ出た。しかし、
周囲には、ほほえむ顔と、さんざめく祝宴があった
3、 「何という悲劇よ。また生まれてしまった」
かれは、それと知って、声高に長く、泣きつづける
しかし、人々は赤児をあやし、笑わそうとして、笑ってみせる
4、 かれは、汚物にまみれころげて、日を過ごす
恥ずかしいとも、露思わずに、
赤児は立っては転び、転んでは立ち、
日がな一日、ふざけまわる
5、 遊び仲間と跳んだりはねたり
さまざまの技や商売を覚え
胸厚く丈高くたくましく
年ごとにずんずんと成長する
6、 相手を見つけ愛をささやき
バラ色の虹が架かる
聞き慣れぬメロディを口ずさみ
珍しい酒をがぶ飲みする
7、 男と女の人形をこしらえたもの
幾百万とない人形をこしらえたもの、それはブラフマン
しかし人形はそうとは知らず
人形あそびをよろこんでいる
ティム ティム ティム
8、 このマーヤーという人形は聖牛のように
鼻の孔に鈍性のなわがついている
肉欲と怒りはさそりのむち
奴隷の背中をぴしりぴしりと叩く
9、 他の人形が身をふるわせてかれのまえに立ち止まると
かれはよろこんでにたにた笑う
かれは他人に苦しみをあたえる。だが 、
自分はこれっぽっちの苦しみにも耐えられない
10、 かれは誓い、叫び、手を振り
血ばしった眼でいらだち、いきまく
なんともはや見事な見ものよ
怒りの悪魔にのりうつられて
11、 かれは文字を綴り、書き、がり勉する
なぜそうするのかもわからずに
狂気のように走り廻って知識を集める
いやでもおうでも腹をふくらませるために
12、 あぁ、あなたはおかしな小さい人形を見たか
おなかにやたらと本をつめこんで
ねたみ深い眼を向けるのだ
学者人形に会うときには
13、 あぁ、そしてひそやかな音をききなさい
恥づべき欲情が襲ってきたのだ
心にひそむねじくれた欲望が
罪深くも満たされる
14、 かれは誇らしく叩いてみせる。なにを。自分の背中を
美とたくましい筋肉と活力とを
だがひとあしごとに
老いは、しのびよる
15、 かれの顔にはしわがより、よたよた歩いて目をしばたく
子供たちは叫ぶ。「おいぼれまぬけ」「おいぼれまぬけ」
かれは喘ぎ、歯ぬけの口をゆがめる
骨もがたがただわさ」
16、 最期の日まで恐れおののく
すり切れたぼろ布のようなからだをして
あぁ、マネキン人形よ。喘いでも嘆いてもむだなこと
最期の日はいつか来る
17、 あぁ、鳥よ、羽をふるわせて
皮膚という鳥籠から飛び立ってゆく
からっぽで硬くなり、うつろで、突っぱって
あぁ、早く退けてくれよ。ぶくぶくと腐臭がする
18、 からだは、生みの親の五大にかえり
人形の望みは灰と化す
なぜ泣くのだ愚か者よ人形のひとりが
満員の舞台で倒れたとき
19、 叔父さん、いとこ、叔母さん、友だち
泣き泣き行列をつくって戸口へ続く
マーヤー人形は親きょうだいを忘れてしまう
神の御名、真実の救い主よ!
20、 あぁ、人間よ。弱よわしい葦によりかかるのはよしなさい
くさめでもしようものなら、うす皮のボートは
水がしみこみ、あなたは
川の中でおぼれてしまう
21、 人形は泣き、眠り、目覚める
見えない御手が、糸を引くとき、
手は神の御手、影に立つ神の御手
しかし、かれは言うのだ。わたし わたし わたしと
22、 ダルマ、カルマは、強い糸
強く引いたり、緩めたりする
そうとも知らず人形は、威張って歩く
舞台の上を縦横に
23、 人形はこの世を永遠と思っている
愚かな勿体ぶった人形よ
ピカリと光った。あぁ、神が幕を閉じたもう
自慢しても、もうおしまい
24、 あぁ、人間よ。あなたは蟻と蛇と鳥の
あいだを歩き廻った
さあ、有余せず永遠の至福への道を
求め、見つけなさい
25、 好運な人よ。いまやっと、
サイ、クリシュナに会ったのだ。サイは来たのだ
サイと親しみなさい
自分がなにか、なぜか、どうしてかを知るために
26、 小ざかしく耳ざわりのよい幾百万の言葉
言葉はあなたの飢えた胃袋を満たしたか
言葉を捨て、魂に燈をともしなさい
束縛からまぬかれ、走り廻りなさい
27、 この歌は人形をうたった歌
この歌は、かれを悲しませ賢くさせる。知っているのだ、わたしは
だが、かれは。さあ、
サティアサイナートの素晴らしい奇蹟を見なさい
そして・・・自分自身を知りなさい
平安・瞑想・大成就 p39-48 より
心(マインド)は、
心(マインド)から言葉が消えたときに消えます。
モウナム(沈黙)を守ることは、
心(マインド)を静める手段の一つです。
― サティヤ サイ ババ
私はこう思います。「人間は”操り人形”ではなく、”からくり人形”なんだ」と。
現代的な言い方をすれば「人間は”運命”というプログラムで動くロボットだ」と思います。
”運命”というプログラムには好ましい部分と”バグ”とも言うべき好ましくない部分があり、まあ何が好ましく何が好ましくないかは価値観にもよりますが、好ましくない部分は自力でデバッグ(修正)しなければならないのではないか、と。
まあ、コンピュータやプログラムについての認識が一般に普及していなければ、こんな考え方をする人はなかなかいないでしょうし、もしこんな考え方をした人がいたとしても、周囲の人になかなか理解してもらえなかったでしょう。
ゲームは困難や敵がいないと面白くありません。
もし、何も試練もなく、困難もなく、いいことだけだったとしたら、人生というゲームも、ある意味、つまらなく、何の意味もないものになるでしょう。
一なるもの、完璧なものは、何も経験できません・・・何も相対性がないのですから。
私たちは不完全さをまとい、幸不幸・悲喜・善悪、あらゆる相対を経験するために生まれてきたといってもよいのかもしれません。
「生命は」という詩を以前紹介しましたが、きっとこの世は不完全な総和で、お互い欠如(バグ・不完全さ)をそれぞれ補い合いながら生きているのでしょう。
http://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2015/10/26/poem-yoshino-hiroshi/
そういう意味では、「バグ」は神様、または本当に自分からの贈り物かもしれません。
このことは上で書いた「なぜ愛である神様が苦しみをお作りになったのか?」という答えなのかもしれません。
きっと、すべてのデバッグを終えたとき、このゲームも苦しみも終わりになり、神に帰るのでしょう。
今月の怒涛の流れが昨日ひと段落した感覚
何年ぶりくらいの安らぎのついさっき。
10年程前に鑑定していただいた時伺っていた
7年+7年で14年続くダーシャ(だったような)を抜けた感覚でした
やはり今月は特別な流れもあったんですね
再び有料鑑定依頼を申し込みましたが、送信が出来ず
まだご多忙中なのだなと残念に思いました。
今、自分がどんな流れに乗っているか
少し型破りな生き方をしているので
アドバイスを集めておりました。
コチラを拝見してまた自分に問うてみます
ありがとうございました
野尻さん、お久しぶりです。
10年ではなく、5年ぐらい前ですね。
鑑定依頼、ありがとうございました。
あれからいかがですか?
お仕事やご家族で、何かありましたでしょうか?
今、猛烈に忙しくて、鑑定は中止しています。
もうしわけありません。
サディサティという悪い時期は抜けましたね。
ただ、ダヤ(4室土星)に突入したので、2年ぐらいはやや注意が必要です。
仕事は変わるかもしれませんが、お金の出入りは激しそうです。
霊的(精神的)な成長にはいい時期かもしれません。
今、本業も副業も猛烈に忙しくて時間がないので、
まとまった時間が持てたらまた見てみます。
もうしわけありませんm(_ _)m
ISOP様
覚えていて頂いて嬉しいです。
また丁寧なご返信もありがとうございます。
サディサティの14年長かったです。
仕事も家庭も全く変わりました。激変です。
鑑定して頂いたメールが消えてしまったので非常に残念ですが
もう2年最後の仕上げと思い臨みます。
また是非お願いいたします。
目まぐるしい流れの中心身共に益々御健勝で進まれる事お祈り申し上げます。
野尻様
お時間が取れなくてすみませんm(__)m
昨日はモーダカ作りで徹夜して、朝6時に寝て、11時に起きました(^^;
>仕事も家庭も全く変わりました。激変です。
そうでしたか・・・
また宜しければ、後学のために、どのような変化をしたか、差し支えない範囲で教えてくださいねm(_)m
御無沙汰してます。
久しぶりにコタムリトを読んでいました。
会員「無明がもし、無知の原因でありますならば、では、神はなぜそんな無明などというものを存在させるのですか?」
ラーマクリシュナ「あの御方の遊戯(リーラー)だよ。暗闇がなければ光の輝きは感じられない。不幸がなければ幸福はわからない。悪を知ってこそ善がわかる。それからね、ホラ、外皮をかぶっているからこそ、マンゴーの実は熟れていくんだよ。実が食べられるようになると、外皮はとって捨てられるだろう!? マーヤーの色形をした外皮があればこそ、だんだんとブラフマンの智識が育ってくるんだよ。だから、明知と無明の二つマーヤーは、マンゴーの皮のようなものでね、二つとも必要なんだ。」
ヴァイディヤナート「せんせい! 私には疑問が一つあるのです。このフリー・ウィル、つまり、自由意志というものーしようと思えば善いことももできるし、悪いこともできるーこれは真実ですか? ほんとうに我々は自由にできるのですか?」
ラーマクリシュナ「すべては神の思し召し。あの御方の遊戯(リーラー)。あの御方は色々なものをお創りになるー小さいの、大きいの。強いの、弱いの。善人、悪人。これはみな、あの御方のマーヤー(現象=幻象)だ。ゲームなんだ。見なさい! 庭にありったけの木、どれひとつ同じものはない。神をつかまぬ間は、自分は自由で独立していると思っている。この幻想を持たせて下さるのは、あの御方なのだ。そうでないと、罪はもっと増えたろうー罪に対する恐れがないだろうから。罪の報い(罰)もなかったろうから。神をつかんだお方の気持ちがわかるかね?私は道具、あんたが使い手。私は部屋であんたが住み手。私は馬車であんたが御者。行かせる通りに私は良く。言わせるとおりに私は言う。」
お久しぶりです。お元気ですか?
あれから、お仕事はいかがですか?
ラーマクリシュナ、素晴らしいですね。
昔、この世の「悪」をどのように理解していいか分からない時期がありました。
日常やニュースなどでひどい事件・悪事を聞くにつけ、その悪人に対し大きな憎しみや怒りが出ますが、その感情は正しいのか?・・・
神は「愛」や「許し」を推奨するけれど、湧き上がる「悪を憎む感情」をどのように理解・処理すればいいのだろうか?・・・
そんなことを思っていました。
一つ解決になったのは、 神との対話という本の『 小さな魂と太陽 』という話です。
基本的には、上記でサイババやラーマクリシュナの仰っていることと同じですが、少し、「悪や悲惨」というものについての見方を、たとえ話で説明しています。
2つお話があります。少し紹介します。
ーーーーーーーーーーーーー
神との対話『 小さな魂と太陽 』Part1
かつて、自らが光であることを知っている魂があった。
「わたしは光だ」とそれは言った。「わたしは光だ!」。
だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても体験にかえることはできない。
この魂が生まれた領域では、光しかなかった。
どの魂も偉大で、どの魂もすばらしく、どの魂もわたしの神々しい光を受けて輝いていた。
そこでは、その小さな魂は、まるで太陽の前のロウソクのようだった。
偉大な光の中では、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない(表現できない)。
その小さな魂は自分自身を知りたくてたまらなくなった。
あまりに知りたがるので、或る日、わたしは言った。
「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、わかるか」
「どうすればいいのですか、神様? わたしは何でもします!」
「お前は、わたしたちから離れなければならない」とわたしは言った。
「そうして、闇を求めなければならない」
「闇というのはなんですか、聖なる方?」と小さな魂は尋ねた。
「それはお前ではないものだ」とわたしは答え、小さな魂は理解した。
そこで、小さな魂は全体から離れ、別の領域に行った。
その領域ではあらゆる闇を体験することができた。そして、闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。
「父よ、父よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか?」
――
(神様)
だが、わたしは一度もあなた方を見捨てたことはない。
常にそばにいて、本当は何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、我が家に呼び戻そうとしている。
だから、闇の中の光になりなさい。
そして、闇の中にいることを呪ってはいけない。
また、自分が何者であるかを忘れてはいけない。
もっとも大きな試練が、もっとも偉大な勝利になる可能性がある。
このたとえ話をしたのは、どうして今のような世界になったのかを理解させるため、
そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、
その瞬間に世界が変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。
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上のお話には続きがあります。
続きと言うか、時系列では、上の話の間に入るべきお話ですが・・・
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『 小さな魂と太陽 』 Part2
どんな神の一部になるか、好きなものを選んでいいよ と、わたしは小さな魂に言った
「あなたは、神性のどんな部分を、自分として経験したいかな?」
「それでは、わたしは赦しを選びます。完璧な許しという部分を体験したいんです」
と、小さな魂は言った。
さて、想像がつくだろうが、これは少々厄介な問題を生んだ。誰も赦すべき相手がいなかったのだ。
創造されたものはすべて完璧であり、愛であったから。
「赦す相手がいないんですか?」 小さな魂は尋ねた
「誰もいない」 わたしは答えた。
「まわりを見渡してごらん。あなたより完璧でない魂、すばらしくない魂が見えるかな?」
そこで、小さな魂はくるりとみわたして、自分が天のすべての魂にとりかこまれているのに気付いて驚いた。
魂たちは、王国のはるか彼方から集まってきていた。 小さな魂が、とてつもない神との対話をするといってやってきたのだ。
「わたしより完璧でない魂は見つかりません!」 小さな魂は叫んだ。
「それじゃ、誰を赦したらいいんでしょうか?」
そのとき、ひとつの魂が群衆の中から進み出た。「わたしを赦せばいい」と、その友好的な魂は言った。
「何を赦すんですか?」小さな魂は尋ねた。
「あなたの次の物質的な人生に出かけていって、何かをするから、それをあなたが赦せばいい」友好的な魂は答えた
小さな魂には信じられなかった。 これほど完璧な存在が、「赦し」を受けるような「自分を貶める」行いをするということが、想像できなかった。
「しかし、どうしてそんなことをしてくれるんですか?」小さな魂は尋ねた。
「簡単だよ」友好的な魂は説明した。「あなたを愛しているからするんだ。あなたは赦しとして自己を体験したい。そうなんだろう?」
「『寒』がなければ『暖』もありえない。『悲しみ』がなければ、『幸福』もない。『悪』と呼ばれるものがなければ、『善』と呼ばれる体験もありえない」
「あなたが、あることを選ぶためには、それと反対の何か、あるいは誰かが、宇宙のどこかに現れないといけない」
友好的な魂はそう説明すると、小さな魂に
「最後にひとつ、忘れずにいて欲しいことがある」 と告げた。
「わたしがあなたを襲い、暴力を振るうとき、想像しうるかぎりの最悪のことをするとき・・・、 その瞬間に・・・ 本当のわたしを思い出してほしい」
「忘れませんとも!」 小さな魂は約束した。
「今と同じように、完璧なあなたを見ます。ほんとうのあなたを、いつも思い出します」
そう、小さな魂は答えた。
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『 小さな魂と太陽 』の話は以上です。
もしかしたら、悪人というのは、この大いなる劇・ゲームの中で、一番やりたくない役を引き受けてくれた、この世で最も優しい魂なのかもしれません。
どうしても許せないことや人がある時、この話を少し思い出すと良いかもしれません。
素敵な話ですね。
ありがとうございますm(__)m
プライベートな話はどこかで、またお会いする機会があればしたいですね。
ただ、住んでる場所も仕事も変化はないです。
インド占星術にめちゃくちゃハマった後、あまりに機能しすぎていて逆にあまり興味がなくなってしまいました。
こんなに機能しているなら、起きると決まっていることは起きてしまうのだろうし、それならできるだけレメディとして祈っていたり霊性修行した方がよくね?みたいな感じです。(霊性のことを忘れて生活していることがほとんどですが・・・)
2年前くらいにインドに行って、目に見えないエネルギーに少しだけ敏感になってから、少し世界が変わりました。(残念ながらアガスティアの葉を読む機会はありませんでした。)
サイババという聖者とは全然ご縁がなさそうで、どんな方か今でも分かっていないんですが。
物質化とか完全にインチキだとしか思っていなかったのですが、物質化が本当かはともかくとして物質化されたと言われるものの写真を見ると明らかに霊的なアイテムだなというのがわかります。
論理的に考えて、物質化とかありえんでしょという思考を超えて、感覚器官が霊的なエネルギーを感知するので、少なくとも凄い聖者なんじゃないかなと思いました。
hikariさんのおっしゃること、よくわかります・・・・って、ほんとはよくわかってないのかもしれませんが。
結局、占いよりも開運法の方が重要ですよね。その人にとってどのような開運法がよいのかを示せる占いであれば、開運法と同じぐらい重要である、と言えるかもしれませんが。
>インド占星術にめちゃくちゃハマった後、あまりに機能しすぎていて逆にあまり興味がなくなってしまいました
あれまぁ、占いやめてしまったのですか?・・・もったいない!
短期間でこれだけ習得する人は珍しいなぁと思っていたのですが・・・^^;
でも、ラオ先生曰く、「いずれは占星術を捨てて、霊性の道を歩むべき」と仰っていたと思います。
ある意味、正常な進化なのかもしれませんね。
>サイババという聖者とは全然ご縁がなさそうで、どんな方か今でも分かっていないんですが。
>物質化とか完全にインチキだとしか思っていなかったのですが、・・・
正常な反応だと思いますよ(^^
普通、偉大な聖者というのは、人目を集めるために力を見せびらかしに使ったりしないものですから。
ある意味、精神的な人は「そんなパフォーマンスで人々の賞賛が欲しいのか?それは虚栄心ではないのか?」と思って、疑いの目で見る人が多いと思います。
実際、サイババの奇跡の部分に惹かれて信者になる人は、現世利益的なことを望んでいる人が多いのが実情です。
そういう意味では、サイババの奇跡よりも、ラーマクリシュナの精神的な言葉や、マザーテレサのような奉仕的な行為に惹かれる方が、精神的な人と言えるでしょうね。
でも、一方で、マハリシやラーマクリシュナは偉大な聖者ですが、日本でどれだけ知っている方がいるでしょう?・・・おそらく、100人に1人か2人ぐらいでしょう。
逆にサイババはどうですか?・・・きっと名前ぐらいは皆知っているでしょう(若い子は知らないかな?)
サイババは、「奇跡は私の名刺だ」と言っています。
サイババがもし、何の奇跡も起こさなかったら、これほど世界に知られることはなかったでしょう。
きっと、サイババは奇跡という「名刺」で世界中の人に知られるようにし、それから多くの人を導こうとしたのでしょう。
「人」というものも、時とともに求めるものが変わり、成長していく存在であるなら、一番最初の動機は特に重要ではないのかもしれません・・・きっと誰しも通る道なのですから。
人は奇跡から入っても、成長とともに、もっとサイババの精神的な所に惹かれるようになるはずです。
サイババは、「奇跡に重きをおいてはいけない」と言っています。
サイババの真の力は、奇跡というパフォーマンスではなく、愛や真理と言った精神的なところにあるのだ思います。
実際、一日も欠かすことなく真理を皆に語り、愛を説き、そのサイの言葉は何千冊もの本が出版されています。また、サイの奉仕活動も非常に規模が大きいです。
無料の病院、無料の学校、大規模な井戸や水道の無償の建設・・・山ほどあります。
嫌疑論者がサイババをインチキと言っても、その行為・実績だけは否定できません。
マスコミやメディア媒体は、サイババの奇跡ではなく、もっとそういったところに焦点を当ててもらいたいと思います。
>物質化とか完全にインチキだとしか思っていなかったのですが、
普通の感覚ではそうですよね。
むしろ、騙されないように、しっかり疑って見極めるべきだと思います。
実際、奇跡がインチキという人もいて、実際に真贋論争などが起こっています。
ただ、ビブーティ物質化のインチキ動画などと言って出回っていますが、あれは映像を加工した質の悪い創作物ですね(←ビブーティの部分だけ、妙に白くなっている)。
まぁ、ともあれ、サイの奇跡は世界中で起こり、「写真からビブーティが出た」「アムリタが出た」なんて言うのは山のようにあります(おそらく何万件)。
これら全員嘘ついているというのは、逆にそっちの方が信じられない気がします。
それ以外にも、世界のいたるところにサイババが現れたり、病気を治したりというのも相当の数があります。他にも死人を生き返らせたり、雨を降らしたり、ある時はハヌマーンの姿になり巨大化したり、幻を見せたりするなど、にわかには信じられないものも多々あります。
まぁ、信じるか信じないかは、その人の判断に委ねますが・・・
ただ、今も続き、誰にも見たり、近くで体験できる奇跡があります。
孤児院でサイババのペンダントからアムリタが常に流れ出ていまして、実際にこの孤児院に行けば、手に取ってみたり、小さなペンダントからとめどなく流れる様子も見れるし、実際舐めたりすることができます。
動画のアドレスを下に載せておきます。
https://youtu.be/4VAUYCdip10
小さなペンダントから、液体を何年何十年と常に出し続けるというのは、どんなマジシャンにもできません。
そのマジックが、マジシャン本人がその場にいなく、実際にペンダントが手に取れるとなれば、さらに不可能でしょう。
これはマジック(インチキ)ではなく、奇跡としか言いようがないです。
こればかりは、サイの軌跡をインチキと言う人も、何も言えないようです。
サイセンターでも、たまにこのアムリタをもらってきて来る人がいまして、皆で分けて舐めたりしています。実際に甘いです。
「これが不死の甘露(アムリタ)か~!」と少し感慨深いです。
まぁ、ラーフのように、実際に死ななくなるということはないですが・・・(^^
ただ、以前は常にアムリタが流れ出ていたのですが、サイババがお亡くなりになってからは、孤児院でお祈りする時間にだけ流れ出るようになったそうです。
こんばんは。
ヨガを教えてくれた先生に、占星術のプロになるのってどう思いますか?と聞いたところ、猛反対されたので少なくともお金を取って占星術をすることはないと思います。
やめたと言うか、私の場合は身内と自分のために使っています。
サイババの件ですが
奇跡が本当か噓かは正直、どうでもいいかなと思います。奇跡を信仰するという気持ちもあまりよくわかりません。
ペンダントから液体が本当に出たからといって、それが100%本当だとして、だから?という気もします。
ただ、個人的には、たまたま物質化された言われたと言われる写真をネットで見たところ、眉間にすごいエネルギーを感じるのと同時に肛門まで思いっきりしまって「なんや、これ!?」とビックリしました。
強いエネルギーを発している画像を保存するのが少し趣味みたいなところがあって、すぐにダウンロードしました。
https://ameblo.jp/smanalo/entry-12402028646.html
そのひとつが、これですけど、本当に物質化されたものなのかは知らないですが、個人的に眉間が痛くなってくるくらいエネルギー感じるんですが、どうですか??
しかし、よく考えてみると、
「ペンダントから水がずっと出ている。こんな奇跡を行うのだから、凄い聖者に違いない。」
「なんて強力なパワーオブジェクトが実在しているんだ。本当に物質化されたものなら、凄い聖者に違いない」
というのは、同じ論法だなと思いました。笑
あんまり人のことを言えたものではないですね。
話は変わりますが、サイセンターでルッドラムを唱えられたという記事を昔読んで、いつか参加したいものだと思いました。
また、いつかお会いできるのを楽しみにしております。
ペンダント見て見ました。
個人的には霊感が全くないので、あまりビリビリは来ないですね(^^;
でも、クリシュナってこんな顔してたのですね!
結構、現代に伝わっている顔と近いかも・・・
>ペンダントから液体が本当に出たからといって、それが100%本当だとして、だから?という気もします。
私も、昔は奇跡に興味があったのですが、今は聞いても「ふ~ん」と思うだけです。(※今でも、アシュラムで写真撮ると、サイババが写っていたりします)
サイババはこう言います。
『 わたしの力は、奇跡にあるのではない。
わたしの力は愛、それのみにあるのだ 』
―サティア・サイババ
個人的には、物質化より、サイババの言葉や聖者の言葉を見ると、宝物のように感じられます。
https://jyotiatmananda.fc2.net/
またいつかお会いしましょう。
お店ができたら、遊びに来てください^^
玄道 学 さん
インド占星術は、熟達すればどのような開運法がよいかを示せる稀有な占いかとは思います。
ただ、日本は、インド精神文化が根付いていないので、結局、インド占星術が示すレメディを実行できる人がいないのかなと。
例えば、土星の状態が悪い、もしくは土星期なので、ハヌマーンのマントラ唱えましょうと言ったところで、普通はしませんよね。
①霊性修行⇒インド占星術
これは、あるヨギの自叙伝で、ユクテスワ師の指示によってヨガナンダが占星術の腕輪をはめるように、ヨガの道に入った人が脇道にそれないためにインド占星術を修めるのはありかなと思っています。
②インド占星術⇒霊性修行
インド占星術の機能っぷりに、「あぁ、カルマの法則からは逃れられないし、とりあえず霊性修行の道に入ろう」というのもインド占星術を知った意味はあるのかなと思っています。
③ インド占星術のみ
これは、一番、幸せになれないのかなと。少なくとも自分はそうでした。
ハマリにハマって、めちゃくちゃ勉強して、インド占星術が機能すればするのを実感するほど、悲観的な決定論者になって虚しさを覚えました。
役に立つので使うけど、ある程度距離を置くのがベターというのが現在のスタンスです。
少なくとも、インド占星術の勉強をするくらいだったら、ジャパしたり瞑想した方が建設的だなと今は思っています。
hikari様へ
言葉が足りず、誤解を招いてしまった様で申し訳ありません。
勿論、インド占星術は(ラル・キタブの様に)開運法を示せる占いです。
ただ、健康を害している人に「マハームリチュンジャヤ・マントラを唱えましょう」と言っても、「だったらホロスコープを見る必要はないんじゃないのか」とも思ってしまうんですよね。
玄道 学 さん
お気持ちはよくわかります。
日本では、他人のためにインド占星術を活用するのは少し無理がありやしないかと思っています。
私は、他人のホロスコープを見るということの意味は見いだせなくなっていて、他人のチャートの鑑定はやめました。
あくまで自分のために、霊的生活の上に付属するもの、もしくは自分を霊性の道に導くものとして活用するなら日本でもやる意味はあるのかなとは感じています。
あと、学術的な興味でやるのは自分がそうだったので凄く気持ちがわかりますが、それする時間があるなら霊性修行の方が良くないかと思っている今日この頃です。
あくまで私見ですが。
あと、多少なりともインドの宗教・カルマの法則を理解している俗世の人に
「お前は、2ヶ月後に体調崩すから、今からマハームリディユンジャマントラを毎日108回唱えるように。そうすれば、少しはマシになるから」
「サー、イエッツサー」
みたいなことが日本人でも可能であれば、もう少し意味はあるのかなとは思いますが。なかなか難しそうですよね。
hikari様へ
大変勉強になりました。
ありがとうございます。
インド占星術って占いではあるけど
宗教にも似た力を感じます
例えば仏教には
人の悪口を言ったり、嘘をついたり
おしゃべりするのは業であり禁物である
などとする教えがあります
インド占星術を勉強していくと
そういう教えにリンクするんですよね
(2室がマーラカ)
インド占星術のすごいところは
さらにそこから踏み込んで
万人に共通の生き方を説くのではなく
個人にあった生き方が分かるということです
例えば
双子座ラグナにとっては
優しさやモラルは凶に転じやすい
(木星機能的凶)
なので
優しくあろうと頑張るより
美しさや楽しさ、愛することを頑張るほうが
運が開きやすい
など
チャートの見方を知っていくたび
自然と開運する生き方を学べ
更にそこに深い説得力があることが
インド占星術の醍醐味であると考えます
マントラも結局は意識の持ち方を言葉に乗せているので
ヒンドゥー語の分からない人にとっては
あまり意味の無さないものと思っています
仏教のお経と同じで
意味を知らないで唱えるのは
信心を深めることにのみ効果を発揮するものであり
やはり
音の響きなどより
そこで示されている意味こそ重要で
それを唱えることにより
その意味を自分の魂に落とし込むことこそ意味があるのではないかなあ
と思います
意味も分からず唱えることは
それこそ馬の耳に念仏だと思います
なのは様へ
言葉が足りず、誤解を招いてしまった様で申し訳ありません。
しかし、なのは様はすごいですね。ラグナの位置で性格まで解るんですか。
私はこれまで「吉星・凶星はダシャーのためにある」とばかり思っていました。
勉強になりました。
ラグナで性格が分かる?
私そんなコメントしました?
ダシャーはほんとに面白いです
インド占星術の醍醐味ですね
木星期の今
人生で一番幸せです
双子座ラグナであり
木星は機能的凶星ですが
やはり木星の吉パワーは素晴らしいです
それだけに
次の土星期がどうなることか
という畏れはありますが。
玄道 学 さん
あくまで私見ですので気にしないでください。取り留めもないことを発言してしまいました。
こちらこそ、ありがとうございました。
インド占星術自体がアタルヴァヴェーダに近いウパヴェーダ(ヴェーダの副学)なので、単体で扱うのはやはり無理があるとは思っています。
ブッダは(文脈を考える必要はありますが)アタルヴァヴェーダを否定してロジカルに考えるように勧めていますし、
その人の立ち位置によって何が必要かは違うとも思いますが、
日本にいながらインド占星術に出会えたのも何かの縁ですし、本当に勉強してよかったと思います。
それでも突き抜けてしまえば、手放してカルマヨーガの道を歩むようになるのでしょうね。
この世界で起きている現実や個の存在と神については、海と波のような関係と捉えています。
ユングの意識の捉え方も近いと思っています。
幸不幸や吉凶についてはそれぞれ裏の面があると思っています。
仕事の段取りを考えたり進捗を予想する時にターラーバラをよく使いますが、
私の場合ターラーバラの良い日は確かに穏やかで負担が小さかったりしますが、仕事は進みません。
ターラーバラが悪い日はトラブルが起きたり不具合が発覚して奮闘することになりますが、仕事は成果がでやすいです。
ですので、大事な会議などはあえてターラーバラの悪い日に入れたりすると、
自分の気が付かなかった点や不備などを上手く指摘してもらえるのに特に責められることもなく
逆に評価されるということもあります。
進捗も出て評価もされるターラーバラもありますが、
大きな目で見ると吉凶全てこのような巡りになっているんだろうと考えています。
吉の時に何をするべきか、凶の時に何をするべきかを考えるようになりました。
晴耕雨読というか、その時々でやることがあると感じます。
特にダシャーに対応するアイテムを身に着けるようになってからこういった考え方が強くなり、
運命に寄り添うというか流れに従うことの大切さを感じています。
皆さんのコメントを見て感じたことをつらつらと書いたのでまとまりがありませんが、
シェアしたいと思います。
ニーチャバンガさん
お久しぶりですm(_)m
コメント、ありがとうございますm(__)m
>インド占星術自体がアタルヴァヴェーダに近いウパヴェーダ(ヴェーダの副学)なので、単体で扱うのはやはり無理があるとは思っています。
たしかにそうですね。インド占星術をしている人の中にも、処であるはずのマントラやプージャ、祈りや信仰など、宗教的な部分を気持ち悪がって、ある意味、敬遠したり、バカにする人がいますが、結局、インド占星術もヴェーダの一部だとすると、信仰や宗教的なことと、分離するのは難しいですね。
>それでも突き抜けてしまえば、手放してカルマヨーガの道を歩むようになるのでしょうね。
ラオ先生の言うように、いつかは占星術は手放すべきなのかもしれませんね。もし、神または運命がもたらす全てを、感謝して受け入れることができるなら、占いなんてものは、全く必要ないのかもしれません。
>吉の時に何をするべきか、凶の時に何をするべきかを考えるようになりました。
>晴耕雨読というか、その時々でやることがあると感じます。
流れに乗るために占星術を使用するという活用法ですね・・・きっとそのような使い方が、インド占星術の有用な使用法と言えるのでしょうね。
よく、占いの結果に一喜一憂して終わりの人がいますが、それはあまり有用な使い方とは言えないかもしれませんね。
ターラ―バラ、なかなか機能するようですね!^^
あまりしっかり検証ことがないですが、私も少し見て見ますm(_)m
日本ではちゃんとしたマントラや処方になかなか巡り合えないので
仕方ないかもしれませんね。
特にマントラは人から伝えて貰う事が本質なので、
マントラを伝えられる人に出会った事がない人には
効果が分からないのも無理はないと思います。
しっかりした霊的な系譜にいる人でないと媒体を経由してマントラを伝えるのは
難しいのではないでしょうか。
余談ですが、8室の本質は「種と育成」だとつくづく感じます。
生命、生殖器官、相続、密教、ビージャマントラ:beej=種など…。
上位の人から受け取った種をいかに育てるかで今生でのあり方が決まりますし、
せっかく受け取っても育てられないと種を腐らせてしまいます。
宝くじのような棚ぼたも散財して自己破産という話もよくありますし、
悩みもままならない状況から生まれた「悩みの種」ですよね。
吉凶については吉凶各々の出来事や体感について
チャートに記されているものを100%経験することが
一番のカルマの解消に繋がり、また摩擦もないものだと思うに至りました。
ニーチャバンガさん
8室が「種」というのは面白い考えですね!
私は8室は「本質的に隠されたもの」みたいなイメージを持っていました。
そこから、生命、神秘、研究のような意味が出るのかなと・・・
でも、「種」は「一番の大元・本質」、「それを含み、生み出すもの」のようなイメージですので、「本質的に隠されたもの」に近いイメージかもしれませんね。
チャートに記されているものを100%経験することが一番のカルマの解消とのご意見、もっともですね。
要は、人にその勇気と覚悟があるかです。
でも、人情的には、「悪いことは少し緩和できないものか?」と考えるのも、致し方ないかもしれません^^
ISOPさん
私のは単純な例えですが、種は地面に埋まっていますし、そこからどんな芽を出すか、或いは腐るかは行動次第と思っています。
子種なんて言い方もありますよね。
>でも、人情的には、「悪いことは少し緩和できないものか?」と考えるのも、致し方ないかもしれません^^
それが人と言うものですよね、同感です。