コメントにアガスティアの葉の話が出てきたので、青山圭秀氏の「アガスティアの葉」の最後の章から部分引用します。

青山さんが、アガスティアの葉を読み、サイババの元を訪れるところからです。

何かの参考になればと思います。

非常に深遠な内容であり、もう何十回も読み返した部分です。

カルマ、自由意志、神の恩寵、運命、真の自由・・・・・・占い師としても考えさせられる重要な内容ではないかと思います。

長いので、最終章の一部だけ引用致します。

興味を持たれた方は、本を買って、ぜひ全部読んでみてください。

 


 

(前略)

私は、運命と自由意思についての本質的な議論をサイババに挑まなければ、と思っていた。というより、思い詰めていた。

「スワミ、アガスティアの予言には、私の現在・過去・未来が全て書かれて……」

だがサイババは、それをさえぎって言った。

「おまえは、そうやって自分の過去や未来を知ってどうするのだ。
 それが本当に自分の過去だったかどうか、おまえにはわかるまい。
 本当にその未来が訪れるのかどうかは、これからの精進による。
 どの道、おまえには現在しか与えられてはいないのだ」

(中略)

サイババは続けた。

「過去世において、おまえは由緒正しいブラーミンの家系に生まれ、不二一元のシャンカラ哲学を学んだ。
この世界が唯一で、分離不能な実存であるというこのヴェーダの根本概念におまえは魅かれ、
さまざまな慈善活動に携わったが、その一方では不道徳な生活に陥った。
だがそれでも、おまえには一筋の純粋な心が残っていた。
そして、今際のきわにおまえの唇からもれた、『真実が欲しい』というたったひと言の祈りが、
わたしの心を捉えて放さなかったのだ。
そうしてわたしは、次の生でおまえをシルディに呼んだ」

「……」

「おまえはシルディでわたしのことを文章にしたが、
短い生涯を終えるまでに、それが公の目に触れることはついになかった。
こうして、おまえが今生でわたしの物語を書物に著すことが決まったのだ」

サイババは厳しい表情をしていた。
一方の私は、サイババの口から直接語られた私自身の過去世の秘密を、ただ呆然として聞くしかなかった。

(中略)

「スワミ、それと同じことが、アガスティァの予言書に……」

サイババは、それを即座にさえぎって言った。

「アガスティアにこれらのことを教えたのは、誰なのだ。
アガスティアの祈りを聞き、その讃美を受けたのは一体誰か。
これらを教えた尊神シヴァは、今こうして、おまえの目の前に化身している」

「……」

「やがて来る次の生では、わたしは再びおまえを呼ぶ。
だが、それはこのような形でではない。
わたしはおまえを、プレマサイの地、マンディアに再生させる。
両親はわたしにちなんで、おまえをサイ・ヴェンカタと名付けるだろう。
この神聖な名を名乗り、神と一体となり、二度と再び、おまえは――」

こうしてサイババは、私に口をはさませることなく、その後に続く私の人生を一気に語った。

向かい合ったまま、どれくらいの時が流れたのか、よくは思い出せない。
だがそれは、今までにだれとも持ったことのない濃密な時の流れだった。

過去から未来にわたる時の全てが、そのひと時に集約されていた。

 

やっとのことで口をついて出たのは、常々私が思い続けていたことだった。

「ということは……ということは、われわれの運命はあらかじめ決まっているということなのでしょうか。
人間の自由意思は、どうなってしまうのでしょう」

人知を超える神秘の世界に身の程も知らず挑もうとする少年を、サイババはどう思っただろう。

このとき、おもむろに口を開いたサイババの答えは、私を驚かせるに十分だった。

「この地上に生きる者の中で、真に自由な者など一人もいない」

「……」

「自由とは、他からの独立を意味する。
 他に依存し、無明の状態にあって自分は自由だと主張しても、意味がない。
 欲求と欲望のとりこでいて自分は自由だと主張しても、意味はない。
 完全な自由は、この地上にあってはだれにも与えられていない」

(それでは、結局私たちは……)

「おまえはまず、”自由”の意味を理解しなければならない。
 自由とは、英知より生じ、真の人格から来るのだ。
 束縛が少なければ少ないほど、自由は大きい。
 そして、人を束縛しているのは、その欲望に過ぎない。
 自由とは束縛のないことであり、欲望のない状態を指す。
 それは純粋な英知から来る。
 そして人は、神と一体となった時、ついに本当の自由を手に入れるのだ」

「……」

私は、ケララ州で最初に出会った占星家・ナラヤン師の言葉を思い出した。

『過去からの行ないで現在が決まり、現在の行ないで未来が決まる。
それらは、カルマの法則で厳格に規定されており、その影響を免れることはだれにもできない。
だから、今生での正確な誕生時刻と位置、あるいはそれに代わるものがあれば、そこから未来や過去を計算することもできるのだ。

ただし、それは現象のレベルでの話だ。
最も深い霊性のレベルでは、神が自由であるように人も自由だ。
そのレベルに立った時、人は自由な選択を行ない、なおかつ行動を誤ることがない。
それは、なにものをも超越した状態だ』(『理性のゆらぎ』271~272頁)

もしかしたら、ものごとは決まっている、という言い方は正しいのかもしれない。
なるほど、ものごとは決まっており、それ故に占星学やアガスティアの予言などというものが成立する。

確かに、話を物質レベルに限定するのであれば、自由意思というものを説明する方法は今のところ見当たらない。
そこでは、自由意思は、あるような気がしているだけなのかもしれない。
しかし、もし、この世界には物質よりも深いレベルが存在し、われわれの精神性がその存在のレベルに依って立つとしたら、話は俄然、意味深さを増す。

(中略)

私はなおも、サイババに尋ねた。

「あなたの行なわれる奇跡現象は、あなたの力が、われわれの知っている物質世界の法則を凌駕するものであることを示しています。
しかし霊性の世界には、さらに深い法則、カルマの法則があります。
もしわれわれが常にそうしたまどろみの中にいて、マーヤーに支配されているとしたら、
あなたはどのようにして、われわれをそこから救い出されるのですか」

サイババは言った。

「わたしの恩寵は、何ものにも優先する」

「しかし、神が恩寵を注ぐのは、それなりのカルマを持った……(そういう時期にある人ではないのでしょうか)」

「確かに、神は相手を選び、時を選ぶ。だが、神の遍在とはどういうことか。
それは、神の恩寵がだれにも、常に、限りなく注がれているという事実を言ったものではないのか。
そこに、カルマの出る幕などはない」

(中略)

しかし私の心には、それでも納得しきれない何かがひっかかっていた。サイババは言った。

「おまえは、この本の読者のことを気にしているのだね」

「そうです。彼らの中には、善良で、敬慶で、あなたのことを四六時中想っているような人がいます。
本当に、あなたの助けを必要としている人たちがいます」

これは、私の心の奥から出た、真実の叫びだった。
実際、この数ヵ月の間に来た手紙の中には、私には受け取り切れないほど重いものも含まれていた。

(中略)

そんなことを想う私に、サイババは言った。

「おまえたちが互いに心を寄せ合うとき、わたしは必ずそこにいる。
 わたしの祝福は、書物を通じてわたしを知る人々にまで及ぶだろう。
 彼らがわたしのことを知るようになったのは、決して偶然ではないのだ」

「……」

「なるほど、おまえは彼らを知らないだろう。
だが、わたしは知っている。
心配はいらない、心配はいらない」

サイババは、Don’t worryと二度繰り返し、神の恩寵についてのそんな心配など、まるで問題にならないという表情をした。
しかしそれでも、私は食い下がった。

「ではたとえば、病気をあなたに癒される人とそうでない人がいるのは、なぜなのでしょうか。
あなたのもとを訪れても、会ってもらえる人とそうでない人とがいるのは、なぜなのでしょう。
私はたまたまアガスティアの予言を読み、前世の罪を減殺する処方箋を実行することができました。
でも、皆が皆、そうするというわけにはいきません」

「おまえは大きな勘違いをしている」

サイババはぴしゃりと言った。

「おまえが処方箋を実行した時、シヴァ神にアヴィシェカムを捧げた。
それは一体誰に捧げられたのか。
パールヴァティにアヴィシェカムを捧げ、ガネーシャにアルチャナを捧げたが、それは誰に捧げられたのか。
それらはみな、わたしが受け取ったのだ。
そして、おまえが子供たちに供した食事は、だれよりもわたしが楽しんだ」

「……」

「わたしに会うとはどういうことか。
それは、こうしてわたしの肉体に接するということではあるまい。
神に仕えるとはどういうことか。
それには、神の顕れである身近な者に仕えるしかないだろう。
生きるとはどういうことか。
それは単に、肉体をながらえることではないはずだ」

私はまたしても、「化身」サイババの迫力に打ちのめされていた。

 

かつてキリストは言った。『これらの最も小さな者に行なったことは、私に行なったことである』と。

われわれが互いを尊重し、愛し合うこと。もしそれにあえて理由づけをするならば、それは、あらゆる存在の中に、たった一つの同じ神性が宿るからである。
それだからこそ、われわれの行為というものは、誰に、何をしたとしても、全て神に捧げられたものとなる。

サイババが、センターを増やしたり”信者”を増やしたりする必要は少しもないというのも、同じ理由による。
真心から出たものであれば、いつ、どこで、どんな名の神を礼拝してもよい。
それぞれが自分の宗教や信条、自分の哲学において進化し、意識を高めていけばよいのである。

結局、神を礼拝するのに、本当は特別なことをする必要はない。
あるいは過去や、過去世の罪の償いをするのに、なにも聖者の予言を読みに行く必要もないのである。
誰に何を捧げても、結局は、唯一の神がそれを受け取るのだから。

(以下略)

 


 

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