【ヨガ】:マンガル・シュクラ・ヨガ
メルマガからの転載です。
『マンガル・シュクラ・ヨガ Mangal Shukra Yoga』
成立条件 | 影響 |
火星と金星のコンジャクション | 不正行為者、うそつきまたはギャンブラー、他人の妻に没頭する、すべてと対立する、数学に優れる、羊飼い、レスラー、長所・美徳のため世に秀でる |
火星と金星がラグナでコンジャクション | 卑しい女性に耽溺する、検認された行為においてふけって、女性にお金を浪費する、短命 |
火星と金星が4室でコンジャクション | 不安、惨め、親類・友人・子供たちを失う |
火星と金星が7室でコンジャクション | 貪欲、性的に不道徳、女性によって苦しめられる |
火星と金星が9室でコンジャクション | 喧嘩早い、外国の土地に住む、厳しい、彼の妻に忠実でない、ずるい、冶金学に精通する |
火星と金星が10室でコンジャクション | 武器の使用についての優秀な先生、賢い、富やすばらしい服に恵まれる、有名、大臣 |
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このアスペクトは持っていませんから関係のない話ですね(汗)
ただただ、猫ちゃんが二匹揃ってるショットを見て、すごいかわいい!!とコメントしたかっただけです。(*^^*)
かわいいですよね!・・・私の一番の宝物です!^^
私に信仰以上の大切なものがあるとすれば、飼っている猫たちでしょうね。
恋愛・結婚、友人、お金、食、、贅沢品・・・たいていの欲求は落としましたが、猫は私の最大の執着です^^;
猫の額の黒い模様・・・、ヒンズー教徒ですか(笑?
センター分けの髪型に、おでこにビンディー・・・もろヒンズー教徒ですね!^^
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
ちなみに彼の名前はグル(=木星・先生)と言います(^^
右の猫ちゃん、サットヴァ、という感じの目をしてますね・・・。
ところで、いきなり話しが変わるのですが(笑、
ふつう我々は、修行して、執着をなくそうとして、
自我を消そうとしますよね?
でも、そもそも、
最初から自我なんて存在していない。
何事も、自分が行為をなしているように思えるけど、
実は、ものごとは、勝手に展開していっているだけで、
行為者なんて、最初から存在していない。
Aさん、Bさん、Cさん、と、いろいろな人がいるように見えるけど、
実は誰もいなくて、
すべてが一つの命のエネルギーの現れ。
目の前にあるパソコンも、机も全部、同じ一つのエネルギーの現れ。
(ブラフマンということですかね・・・)
でも、これらのことを、
『私』という個人が理解しようとしても、絶対に理解できない。
なぜなら、主体も客体も存在しない世界を、
理解しようとしても無理だから。
理解する、ということが、“私が理解する”となって、
主体と客体をわけてしまう。
個人=自我=神からの分離を信じている心の一部
というのは、
いつも、『何かが足りない』、『もっと他にないか』、と、
どこかに何かを探し求めている。
でも、悟りというのは、
この何かが足りない、というエネルギーがなくなったときに、
わかるもの。
だから、悟りを求めて、修行すればする程、
悟れない、というジレンマ。
悟ろうとするのではなくて、
最初から、消そう消そうとしている、自我は存在していない。
な~んて、エラそうなことを書いてますが、個人には理解できない世界です(笑。
アドヴァイタ系の人の話ですが、
この人たちの動画おもしろいですよ。
http://satsang.jp/intro/opening/
茶丸さん
お話を聞いていて、禅の第六祖・慧能の句を思い出しました。
慧能にはこんな話があります。
——
禅宗の五祖の弘忍禅師のもとには多くの修行僧が集まっていました。
ある日、弘忍禅師は次の継承者を決めるに当たって、
弟子たちに、「自ら会得した境地を偈にして示せ」と告げられました。
弟子筆頭の神秀が示したのが次の偈です。
身は是れ菩提樹
心は明鏡、台(うてな)の如し
時時に勤めて払拭し
塵埃を有らしむこと莫れ
〔訳〕
この身は菩提(悟り)を宿す樹である
心は台にある明鏡のようなものである
だからいつも精進して心を払い浄め、
煩悩の塵や埃で汚さぬように
まぁ、要は「悟りを求めて修行しよう」ということですな!
慧能がこの偈を見て、その傍に
菩提本(もと)より樹無く
明鏡亦(また)台(うてな)に非ず
本来無一物
何処にか塵埃を惹かん
〔訳〕
世界にはもともと菩提も無く、煩悩も無く、身もなく、心も無く、本来無一物である。
なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。
と云う偈を示しました。
この慧能の偈は、茶丸さんの言った「最初から自我なんて存在しない」というのと似てますね。
>だから、悟りを求めて、修行すればする程、
>悟れない、というジレンマ。
ふむふむ・・・理論上はそうなりそうですよね!^^
ちゅうことは、修行は無意味・逆効果でしょうか?
ではなぜ、聖者や仙人・偉人、クリシュナ神は霊性修行を推奨したのでしょうか?
お釈迦様はなぜ覚られたはずなのに、皆に修行を勧めたのでしょうか?
仏典やインドの聖典には修行を行い、悟りを開いた人が大勢載っていますが、皆大嘘つきでしょうか?
世界中にいる修行者や僧侶、出家者は愚か者の集まりでしょうか?
おそらく、そうではないと思います。
修行というのは聖者や偉い坊さん、または神仏が考案したことだけあって、修業とは悟ろうという心すら、消すプロセスをちゃんと内在しているし、そういう悟りに囚われないことを喚起しています。
例えば、私の大好きな「信心銘」を読んでみてください。
http://indian-vedic-astrology.com/kotoba-shinjinmei.html
「真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う
すべてを放てば自然となり
来ることも去ることもなくなる・・・」
上記のように、悟ろうとする心すら障害になることを説いています。
また、修行に入る前はいろいろ動機があると思いますが、修行中に悟りたいと思って修行している人はいません。
何万回もマントラ・真言・お経を唱える者が、そのこと以外考えているでしょうか?
悟りたいと思ってマントラを唱えるなら、マントラを唱えることになりません。
千日回峰行だと、堂入りでは不動明王の真言を10万回以上唱えます・・・心の中はお不動さんと一つでしょう。他に何も考えていません。そこにエゴ・自我が入り込めるでしょうか?
瞑想もそうです。
盤珪和尚は
「瞑想とは、(悟りを含めて)何かを得るために座るのではなく、捨てるために座るのである」というようなことを言っていたと思います。
座る前には動機(欲求)があっても、一たび座れば、それは落ちます。
瞑想中に「悟ろう・悟りたい」などと思っていたら、それはエゴであり、瞑想ではないでしょう。ただ何もせず座り、エゴ・自我を落とすのが瞑想です。
また例えば、インド思想では神(or解脱)に至る3つの道が説かれています。
・知識の道(ギャーナ・ヨーガ)
・奉仕の道(カルマ・ヨーガ)
・信愛の道(バクティ・ヨーガ)
瞑想をしているとき・・・
自他不二となり奉仕をしているとき・・・
神に陶酔しているとき・・・
そこに自我はありません。
その時、「悟りたい」などという心は出てこないと思います。
もう遅いので、続きはまた今度書きますm(__)m
あ、本当ですね(笑)
気が付かなかったわ(笑)
ちなみに、左の白猫ちゃんの名前はなんと言いますか?
白猫はメゴ姫と言います。メゴと呼んでいます。
保健所から貰ってくるときに、すでに名前がついていました。
うちに来るときに、ちょっと名前を増やして、現在の正式名は、「メゴ姫・ガン・ガナパティ三世」と言います^^
>>修行中に悟りたいと思って修行している人はいません。
私もよく瞑想していましたし、
悟ろう!という意思、意欲のようなものはありませんでした。
(まあ、私の場合は、本や動画等を見て、自分でやってただけですけど・・)
悩みや苦しみや、心の痛みのようなものに抵抗して、
もがいている内に、出会って、いつの間にかやっていた、
やらずにはいられなかった、という感じです。
これってやっぱり、そういう人は、
そういうホロスコープをしていると思うし、
全部運命の手の中、
いのちの表現として、
運命に沿って、
勝手に展開していっているだけなのに、
自分がそれをやっている、
と思っているだけ、のような気もします。
だから、
我々は、夢の中の登場人物みたいなもので、
いないと言えば、いないのだと思います。
我々がいないとすれば、
聖者や仙人・偉人、クリシュナ神、お釈迦様も、
いないといえば、いないのだと思います。
むちゃくちゃ究極的な話ですね。
だから、霊性修行する人は修行するし、
そういったこと(モクシャ)とは別に、
現実社会や常識を重んじて、
その中で知恵や知識を身につけて、
奉仕していく人(カルマ・ヨーガ)もいるでしょうし、
俗だけに溺れて、それだけで生きる人もいるでしょうし、
神の愛によって、
神に至る道も、その人に応じたものが、
最初から与えられていて、
その通りにしかならない、
そんな感じがします。
だから、修行が無駄か、
というとそんなことは、
全然なくて、な~んにも間違っていない。
(神への愛とそこに至ろうとする、求道心がそうさせているのだと思うし、
それが神の恩寵なのだと思う。)
神が決めたことだし、
その人の運命を生ききる、
ということだから、
それで正解なんだと思います。
究極的な話で、書いていて混乱しますが・・。
ISOPさんのおっしゃっていることに、
全然間違いはないと思う。
確かに、修行の中に全部内包されているのかもしれない。
でも、悟る人がすごく少ない気もする・・・(笑。
では、気が向いたらまた投稿します。
ありがとうございました。
お返事遅くなりましたm(__)m (週末はメルマガ執筆でだいたい忙しいです)
なかなか面白い見解でした!^^
茶猫さんは完全な運命論・決定論者なのですね。(←批判しているわけではありません・・・もしかしたら、実際決まっているのかもしれません)
私を見てくれた占星術師の方も、
「人は、運命で決められた金額より一円たりとも多く得ることはないし、決められた寿命より1秒たりとも長く生きることはできない」とおっしゃっていました。
完全な運命論・決定論ですね・・・
私には、人の運命というものがどこまで決まっているかわかりません。
決まっていることがあるから、占いが成立するのでしょう。
個人的には、すべてが決まっているとは思っていませんが、実際何の確証もないです。
しかし、仮にすべてが決まっていたのだとしても、それを知ることができないなら、決まっていないのと同じでではないでしょうか?
茶猫さんがおっしゃられるように、この世が幻想であり、また運命が決まっているのだとしても、実際にこの世があるように見え、また自由意思もあるように感じて生きています。
もし、すべてが決まっているからと怠惰になったり、人生を無意味に感じたり、絶望するなら、それが運命を形成するのであるし、決まっていたことなってしまうでしょう・・・ニワトリと卵のように、どっちが先かの話になってしまいます。
ですから結局は、運命があろうがなかろうが、決まっていようがなかろうが、私たちは全力をつくして生きていくしかないのだと思います。
>だから、
>我々は、夢の中の登場人物みたいなもので、
>いないと言えば、いないのだと思います。
無いものと有るものは、非常に理解が難しいです。
ただ、言葉面だけをとらえて、単純に「無いのだ」と思わない方がいいのではないかと思います。
例えば、0(ゼロ)はあるかと言われれば、実際にこの世にあるし、皆使っているでしょう。
でも、ゼロとはないものを指します。
「ない」ものが「ある」とは矛盾してます・・・よくよく考えると頭がおかしくなります^^;
また、例えば、“幻”というものはあるでしょうか?
幻の一種である「蜃気楼」はあるかと言われれば、「ある」と答えるでしょう。実際、それを見ることができるし、辞書にも載っています。
でも蜃気楼は幻で、実体のないものです。
この世もあるのかと言われれば、無いし、有るというのが、正しいのかもしれません。
それは幻想だから「ない」のですが、幻想として「ある」のです。
したがって、般若心経でも、色即是空のあとに空即是色という言葉が来るのでしょう。
>神に至る道も、その人に応じたものが、
>最初から与えられていて、
>その通りにしかならない、
>そんな感じがします。
運命と自由意思についても同じです。
単純に自由意思がないとか、逆に運命がないとか言えるものではないと思います。
例えば、小説と作者を考えてみますと・・・
小説の世界で、行為者は登場人物でしょうか?作者でしょうか?
登場人物は存在しているでしょうか?
個我は存在しているでしょうか?
行為者は誰でしょうか?行為者はいるのでしょうか?
作者と登場人物、どちらが主体でどちらが客体でしょうか?
これは、観点に依ります。
質問の前提によって変わります。
小説中の世界限定なら、Aさんはいるでしょう。
小説の外から見れば、すべて幻想です。
小説中の世界には個我はいますが、作者が作ったものという観点からすれば、登場人物のすべての個我はもともと作者一人であり、作者と同一でしょう。
また、登場人物を作者と別のものと考えれば、Aさんに自由意思はないでしょう。
現に、運命は作者に決められてしまっています。
しかし、その運命はだれが決めたのでしょう?作者と言うかもしれませんが、Aさんというのは、もともと作者自身の中にあったものでしょう。
Aさんを作者の分身・作者と同じもの、作者自身と見るなら、そこには自由意思があるでしょう。実際、作者の意向により、いくらでも運命は変わり決められてはいません。
私たちの深いところにも、真我と呼ばれたり仏性と呼ばれたりたりする真の自分があります。
このレベルにおいては、人は自由であり、運命や束縛もないでしょう。
運命と自由意思も、最も深いところでは同じものなのかもしれません。
この世に相反するあらゆるもの・・・運命と自由意思、神と人、有るということと無いことですら、それは分けられない・・・または同じことかもしれません。
>確かに、修行の中に全部内包されているのかもしれない。
>でも、悟る人がすごく少ない気もする・・・(笑。
悟る人、またはそれに近いところまで行っている人は、実は結構いるんですよ・・・表に出ないだけで。
彼らは、人からの賞賛や自己顕示欲などなく、世俗のことなんか興味がないから、ほとんど知られていません。