ヴェーダ聖典で説かれている3つの道
メルマガからの転載です。
茶猫さんの投稿で霊性修行の話が出てきましたので、今日はちょっとインド哲学(ヴェーダ聖典)で説かれている3つの修行の道について紹介いたします。
この道はヴェーダ聖典やヴァガバッド・ギータなどにも説かれていますが、これらをヴィヴェーカーナンダという聖者がうまくまとめて、本として世界に出版しました。
ヴィヴェーカーナンダは大きくに分けて、真理に至る3つの道があると言いました。(←プラーナヤマ系のラージャ・ヨーガを入れると4つ)
これらの道の素晴らしいところは、他の宗教の精髄を含み、決してそれらを否定しないところにあります。
一つは『信愛の道(バクティ・ヨーガ)』
神を信じ、神を愛する道です。一般的に使われる「信仰」に近いです。(信仰の道と訳される時もある)
他力本願の仏教やキリスト教はこれに近いと思います。
私たちは愛するものとひとつになります。神を愛する時、“それ”と合一し、「我」は消滅します。
和尚流に言えば「誰かを愛する時、そこに“私”はいない。」ということになります。
二つ目は『知・悟の道(ジュニャーナ(またはギャーナ)・ヨーガ)』です。
禅などの自力本願の仏教はこの道と言われます。
この道は神を頼りません「。哲学や瞑想、自己と向き合うことにより、無我・自己の無いこと・空・この世の幻想を悟ります。
三つ目は『行為の道(カルマ・ヨーガ)』
奉仕の道ともよばれます。他者の幸せために働こう、という不断の努力によって、人は無我の境地に立てます。
この道は完全な自己滅却、つまり他人のために喜んで心・肉体、および一切のものを捧げることを意味します。
3つの道・・・『信愛』・『知』・『カルマ』は自己滅却・自我の消滅という一点で一致します。
方法は様々だけど、ゴールは一緒です。
そして3つの道はばらばらではありません。それはもともと一つの道です。
他人を愛することは、神を愛することと変わりません。
また、自己を助けることは、他を助けることと代わりが無く、無我を悟れば、この世は一つの“それ”であることを知ります。
ヴィヴェーカーナンダはどの道でもいいと言います。
自分の適性と好みで選んでかまいません。
どの道が、どの道より優れているわけではないです。
だから大切なのは他の道を非難しないことです。
誰かの道を非難すれば、自分の道を非難することになります。
私がヴィヴェーカーナンダを好きなのは、すべての道を否定しなかったからです。
自らはヒンズー色が強かったのに、他の宗教に深い敬意を払いました。
また、自らの体験を持って、どの宗教でも『真理』に到達できることを教えました。
そうして、争う宗教間に融和と理解の道を与えました。
アイキャッチ画像:http://www.indianembassy.hu/?p=121114
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