【言葉】:『苦の理由』
『苦の理由』
イエス、言う
苦しんできた人は幸いである
その人は〈生〉を見いだした。(~トマスによる福音書 58~)
太古の昔から、人はくり返しくり返し、
生きることには なぜこれほどの苦しみがあるのかと問うてきた。
人が苦しんできたのは、
それ以外に成熟し成長する方法がないからだ。
人が苦しんできたのは、
苦しみを通してのみ、
より目覚めることができるからだ。
そして、目覚め awareness がその鍵だ。
-OSHO
束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、私は走れるのだ。
涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。
-マハトマ・ガンジー
こんにちは、大変ご無沙汰しております。
以前お世話になったプシュアです。
しばらく見てなかったうちにいろいろな出来事があったのですね。
今はいかがですか?
本当に、人生は予期せぬことが起こり、でもそれはきっと生まれてくる前に自分で決めてきた事なのかも知れない
と思うようになりました。
受け入れることが出来るようなり、自分よくやったね、頑張ったね!って思えるようになりました。
弟が継いだタクシー会社、一時は本当に潰れると思ったのですが、縮小して何とか続けられています。
そこでの雑務をやらせてもらっていますが、62歳ともなると、老眼だししょぼしょぼしてくるし(笑)、
疲れやすいし。。
60歳は大きな壁です。
弟は去年、奥さんを大病で亡くしてしまいました。
ずっと内緒にしていたので私も両親も直前まで知らなくて、知った時にはもう末期の状態でした。
なので、義理妹には会えなかったです。
これはご本人の意思だったので、弟も一人で抱えなくてはならず、本当に大変だったと思っています。
今は毎日一緒に仕事をしております。
弟には息子が一人いますが、遠くにいます。
寂しいだろうなとは思いますがせめて、仕事では力になろう、助けようと思い、一緒に働いております。
私の周辺は何の変化もないです(笑)
私は一人がとても心地よいので、この先も一人だろうなあ~て思ってます。
暑い夏が終わり秋が来ますね。
いい季節を楽しみましょうね!
プシュアさん、お久しぶりです。
タクシー、続けてらっしゃったんですね!
コロナでどうなるかと思いましたが、乗り切られて何よりです!
最近は観光客が戻りつつありますね・・・このまま頑張ってください!
弟さん、お辛かったですね。
人生における出来事のストレスランキングでは、「配偶者の死」は一位だそうです。
プシュアさんは、自分の星(LL)と弟さんの星(3L)が、富の2室で同居し、仕事の星(10L)がアスペクトしています。
仕事が弟さんとかかわる星回りです。
ただ、そのお仕事ではやや困難もありそうな星回りです。
奥さんがいなくなってしまった分、これからも弟さんを支えてあげてくださいね。
奥さんではないですが、私も子供のころから何十匹もの猫を亡くしました。
去年も1匹、今年も1匹・・・
最近は、何を見ても「はかなさ」というものを感じるようになりました。
例えば、道で赤ちゃんを見かけたとします。
それはとてもかわいいのですが、何かどこかに妙な寂しさを感じる・・・
きっと、どんな生あるものにも、いつかやってくる終わりを少し連想してしまうのでしょう。
両親や兄弟、飼い猫たち、会社の同僚や上司、秋の虫たちもそう・・・
何を見ても、どこかにはかなさを感じます。
千と千尋の神隠しの主題歌の中に、
「生きている不思議、死んでいく不思議、花も風も町もみんな同じ」
というくだりがありますが、あれを聞いたときに湧き出る感情に近いです。
それが、最近ずっと流れています・・・
どこか寂しい感情ですが、儚いから愛おしいような、大切なような、切ないような、そんな不思議な感情です。
以下は私の好きな、サム・ハリスという人の言葉です。
「考えてもみよ。
今日会った人、通りですれ違った人は全員死ぬのだ。
そしてそのひとりひとりが自分の友人や家族を失って悲しむ。
この世で愛しているものは全て、例外なく全員が失うんだ。
なら、どうして、生きている間に優しくしておこうということ以外に
何かを欲しがるのかね。」
最近、この言葉がずっと心にのしかかってきます。
いろんなことがありすぎたのかな・・・^^;
なんか、変な返信になってしまいましたが、
プシュアさんも、穏やかで美しい秋をお過ごしくださいm(__)m
私は生きていて全てが欲しいし全てを自由自在にしたくなりました
人々は苦しみや努力、苦労を尊びそれをさも価値のあるように言っていましたが
世に苦しみを抱えて生きてみて人々はあれだけ苦しみや苦労を尊んでいたのに何も認めなかったからです
世の中はできるかできないかでしかなかった
能力が足らなかったから苦しみや苦労をし努力をしなければならないと知りました
皆が皆間違っていました
全てを一度で学び終え記憶を失くさず人々が言わずともわかることさえある方が世の中や人々にとっては良かったのですがそれは努力も苦労も苦しみも無い事だと学びました
世界において本質として自己の外も内も自由自在であればそれこそが理想であり目標でありました
故に今は何もかもが自由自在になるように望み願います
幼年期に幼稚園に行く前だったかと思いますが親に少しのことでも褒めてくれたりしていた時に何かが苦しまなければ苦労をしなければ成長できないとささやきかけてきましたが物事を容易く学び取れれば、できるようになればそれで良かった
物事ができるようになることが成長ならば成長のある人生は苦しみも苦労もない真逆の事柄でした
そして相対する人々と我が身の内に存在する神や悪魔を見ました
我が身の内において自己の主観とは別のものが諸々の執着や苦しみ、痛みを生じさせ思考や発想、意欲を変動させ
人々においては己の行いに対してまるで知っているかのごとく対応を変じさせる事を
そして嘔吐をしながらでも仕事をしてひたすら募金などをしていた時に仕事中に君が何をしているかは誰かが見ていてくれるからと知らない方が急に話しかけてきて言われたことも忘れません
他人の体を動かす念力などは見せてくれたのですが空中浮遊はまだ見たことはありませんので機会があれば見てみたいです
一緒に仕事をしていて体が軽くなったりする人は何か色々と影で助けてくれている時があったりしました
逆に邪魔をする人々もいましたがそれも悪魔に動かされているようでした
それらにより自己の内にあるものが勝手に混乱し非効率な行いをするように働きかけられた時もありました
これが古人の言う魔が差すということなのだとわかりました
匿名さん
はじめまして。
返信遅くなりましたm(__)m
>私は生きていて全てが欲しいし全てを自由自在にしたくなりました
苦しみや困難を味わうことなく、すべてが自由で、すべて欲しいものが手に入る状況・・・例えば、働きもせず、座っていれば、望むときに豪華な食事と飲み物が運ばれ、好きな時にゲームを楽しみ、何の苦労も苦しみも知らないまま、何一つ不自由なく暮らしている状況では、人は重要なことは何も学ばずに一生を終えるでしょう。
>人々は苦しみや努力、苦労を尊びそれをさも価値のあるように言っていましたが
>世に苦しみを抱えて生きてみて人々はあれだけ苦しみや苦労を尊んでいたのに何も認めなかったからです
努力しても、報われなかったからと言って、努力や苦労に価値がないと断ずるのは早計でしょう。
努力や苦労に価値がないということですが、努力や苦労もなしに、何か価値のあるものを得ることはほとんどないでしょう。
もちろん努力や苦労しても、期待するものが得られない場合もあります。
それでも、努力や苦労に価値がないとはならないでしょう。
ある意味、大谷選手だって、藤井棋士だって、努力や苦労しないでは成功はなかったでしょう。
一般的に言えば、成功の裏には、多かれ少なかれ、努力があるでしょう。
また、逆に言えば、努力もせずに得られたものには、ほとんど価値が感じられないでしょう。
大谷選手も藤井棋士もボクサーの井上選手も、努力も何もせずにあの能力を持っていたとすれば、面白くなくて、すぐにそれを捨てていたかもしれません。
ある種、努力や苦労をしたからこそ、得られらた物に価値を感じられるのでしょう。
例えばRPゲームを始めて、最初から無敵で、いとも簡単にラスボス倒したら、それはおもしろいですか?
そんなのは、クソゲーでしょう?^^
困難や苦労があるから、おもしろいのでしょう。
苦労や困難は人生を面白くするエッセンスとも言えます。
>人々は苦しみや努力、苦労を尊びそれをさも価値のあるように言っていましたが
>世に苦しみを抱えて生きてみて人々はあれだけ苦しみや苦労を尊んでいたのに何も認めなかったからです
>・・・
>物事ができるようになることが成長ならば成長のある人生は苦しみも苦労もない真逆の事柄でした
苦しみや努力の目的は、他の人に認めてもらうことなのでしょうか?
できないことができるようになることが成長なのでしょうか?
もし、そうだと思うのでしたら、たぶんその目的に対して苦しみは役に立たないこともあるでしょう。
そういう成長もありますが、もっと重要なのは精神的な成長のことではないでしょうか?
例えば、高校生球児が甲子園を目指します。
甲子園に行けるのは、ごくわずかな高校生たちだけです。
その他の人たちの努力や苦労は無駄だったのでしょうか?意味がない物でしょうか?
一生懸命にやること・努力そのものに価値があると思いませんか?
求めるものが得られなくても、それ以上の物を獲得しているとは思いませんか?
例えば、忍耐力、自己管理、鍛錬する力、欲望の制御、集中力、ひたむきさ・・・
努力して、それらが得られれば、大きな成長ではないですか?
また、もしあなたがこれまでに一度も苦しんだことがなかったら、苦しんでいる人の気持ちは分からないでしょう。
苦しみが分からないなら、苦しんでいる人に対して、慈悲心や哀れみも感じることがないでしょう。
いろんな経験があったからこそ、人に共感し、他人の気持ちがわかるようになるのです。
あなたも、いつか、あなたと同じ苦しみを味わっている人を見たとき、その苦しみが分かり、助けようとする時が来るかもしれません。
だから、あなたの苦しみすら必要としている人がいるんですよ。
あなたの苦しみだって、決して無駄ではないんです。
>世界において本質として自己の外も内も自由自在であればそれこそが理想であり目標でありました
>故に今は何もかもが自由自在になるように望み願います
仰るように、そんなことができれば理想的ですね。
でも、現実的に考えて、おそらく外の世界については自由自在になることはないと思います。
人の能力については、限界があるし、避けられない苦しみもあるからです(四苦八苦など)。
もし、あなたが自分のすべての欲求を満たし、すべてを自分の思い通りにする自由を手に入れたいと思うのでしたら、一つだけ方法があります。
それは、あなたの欲を無くすことです。
何も欲がないということは、すべての欲、すべての希望が満たされているということです。
欲求不満や、満たされないことは何もないということになります。
外部(欲の対象)をどうにかするより、内面(欲自体)を無くす方が現実的でしょう。
それだけが唯一自由になる方法なのかもしれません。
苦しみを、苦労を肯定する必要はありませんでした
世の中は自分の言葉や意思が影響を与えはしますが本質としてまず何をするかが大事なのです
人はあらゆる存在と関わり行いを積み重ねるのですから
苦しみには価値がありません
悲しくなる人もいるかもしれませんが価値が無かった
因果も遡れば結局生物はバクテリアのようになり最初は食う食われるすら無いのです
そこに至ってその食う食われるとは一体どこから生じたのでしょうか?
悪をなせば悪の報いあれど善を行えば善の果報あれどそれは只今の状況でしかなく人間は悪をできるだけ行わないようにし善を行うしかありませんが人も含めて苦しみの環境に置かれている生き物たちに前世の報いなどと簡単に判じては言えない事もわかりました
人々や周りの生き物が苦しみがあれど己がより良くあれば良く自分の判断により助ければ良いし助けられなくてもそれは既に宇宙のはじめから決まっていた事だったのです
人間も生き物も己の産まれた瞬間に全ての結果は決まっていますのでできることをするだけでしかなかった
しかして人々は己の内に限界を設けることを何故いたしますのでしょうか?
もし貴方が万能の存在になるかを選ばせてもらえるならば
なりたいのではないでしょうか?
そしてそれこそが至上の願いであり望みであると私は確信いたします
何故人々は人間という枠組みにおいての杓子で限界を設けるのか?
という疑問があります
自由ではありますが
そしてそれには願いには行いが大変に影響を与えることもわかりました
少し前に猫にご飯を与えていましたがあまり依存してはいけないとか色々あってご飯を減らしました
冬の日の事ですがその日の朝5時頃に夢でもう少し猫にご飯を上げてほしい旨を言われました
そしてその日通り道で猫が一匹死んでいました
それから少しご飯を増やしてあげました
猫からすれば貴方のようにご飯をくれるだけで大変にありがたい存在だと私は思います
話は変わりますが苦しみや苦労をしても誰からも認められないという事は苦しみや苦労がある境遇を誰も望んでいないのですよ
教えたことをすぐできる方が雇う人も同じ職場の人たちも望むのです
助かるのです
教えたことをすぐできない
覚えられない
力が入らずに仕事ができない
それは本人は苦しいし苦労をしています
一生懸命頑張ってもできないが本人は死に物狂いでやっています
苦しみますし苦労もしますがそれは尊いのでしょうか?
しかして周りの人もそんな苦しみや苦労など無いほうが良いと思っているのではないでしょうか?
己のみならず周りの人々もそちらの方が良いのではないでしょうか?
教えたことをすぐできるし
力も百人力でも千人力でも出せるほうが周りの人々も助かるのではないでしょうか?
何より余裕があればどんどん人々を自己の裁量で助けられるのではないでしょうか?
苦しみや苦労とは能力があればあるほど少なくなります
人々は能力がある方が良いのではないでしょうか?
故に苦しみを肯定することは意味合いがありません
更には苦しみが多くても学びが無ければ何も意味がありません
しかし学びが無いほうが苦しみも苦労も長く続きます
それは尊いでしょうか?
苦しみや苦労を経験しなくてもわかるなら経験しないほうが良いと思うのです
苦しみや苦労があって学ぶ事と苦しみや苦労が無くても同じ内容を学べるならば
それを選ぶ場合はどちらが良いと思いますか?
何故人々は正直になれないのでしょうか?
世の中で人生を送る中で悪魔にも出会いましたがひたすら揚げ足をとってくるような者共でした
苦しみを肯定するなら私達の宗教の人々の苦しみの身代わりになれと強要したりするような者共でした
それらはひたすら綺麗事を言いながら嘘を重ね矛盾に矛盾を重ねる宗教にいましたが
そして空虚で虚無でありながら地獄を説き地獄に行く行いを説きながら地獄に行く行いをさせる宗教の者共でした
悪魔を語りながら悪魔自身でありました
嘘をつきながら嘘を信じ込めば本当になるなどと言う矛盾の塊の宗教でした
過ぎ去った過去は変えられないというのに
そのような宗教がはびこればますます人々が惑わされ悪魔の虜となるばかりになりますが困ったものだと思います
う~ん・・・そうですね。
もしあなたが苦しみを経験したことがなかったら、どんな人間になったか、想像してみてはいかがですか?
最初から万能で苦労もなく、また思うがままに振舞える権力も財力もあり、生まれてから苦しんだこともなければ、苦しみ自体も 苦しんでいる人の気持ちも理解されないでしょう。
北朝鮮のキムジョンウンがそれに近いですね。
生まれた時から権力を持ち、誰も逆らえず、苦労や苦しみを経験せず、思いのままに振舞えると、ちょっとしたことで人を処刑し、民衆が苦しんでいようがミサイルばかり作製する、人の気持ちを理解できない、あのような人間になります。
苦労が無価値で最初から万能な人がいいという、あなたの理想形ですね。
どのようなものに憧れるかは人の自由なので、あなたの理想があのような人間なら、別にそれでいいと思いますが・・・