個々の人間の潜在意識は、良いカルマと悪いカルマの貯蔵庫なのだ。

神はこの貯蔵庫から、それが快楽であれ苦しみであれ、

その時の人の霊的進化に最も適したものを選択するのである。

永遠の生命への願望はどうして起こるのか。

現在の状態が耐えられないからだ。

なぜか。

それがあなたの真の本性ではないからだ。

それ(現在の状態)が、あなたの真の本性であれば、あなたを掻き乱す願望は起こらないだろう。

現在の状態はどのように、あなたの真の本性と異なっているのか。

本当は、あなたは霊魂なのだ。

人間は自分自身を限定されたものと考えており、それが困難の根源だ。

眠りの中では、世界は無かったし、

エゴ(自我)も困難も無かった。

その幸福な状態から何ものかが目覚めて『私』と言う。

そのエゴのために世界が現われる。

困難の原因はエゴの発生にある。

幸福とは何か?

幸福とは真我(アートマン)の本性そのものである。

幸福と真我は別のものではない。

世界のいかなる物事の中にも幸福はない。

我々は無智ゆえに、物事から幸福を得るものだと思っている。

心が外へ出て行くと、不幸を体験する。

心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。

同じように、眠りの状態、サマーディ(三昧)、失神状態、

あるいは得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、

心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。

このように心は休むことなく動き回り、真我から彷徨い出ては、また戻ってくるということを繰り返している。

木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。

灼熱の太陽の中を歩いてきた人が、木陰に辿り着けば涼しいと感じる。

木陰からわざわざ猛暑の中を行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。

賢い人はずっと木陰に留まっているだろう。

同じように、真理を知る人の心は、ブラムハン(絶対実在=神)を離れることはない。

その反対に、無智な人の心は悲惨を味わいながら世界を彷徨い歩き、

束の間の幸福を味わうためにブラムハンに戻ってくる。

実際には、世界と呼ばれているものは、ただの想念に過ぎない。

世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験するのである。

世界が現われると、不幸を味わうのである。

 

―ラマナ・マハルシ

 

https://blogs.yahoo.co.jp/happyhappysai2010/43746830.html

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